同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 信仰の継承 —

ayumi-san

山田 行


(写真は 野外礼拝 から)

「ところが、神のめぐみによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(コリントⅠ 15:10)

 4月のイースター礼拝でこの箇所が開かれました。パウロは、イエス・キリストが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれたこと、葬られて、三日目に甦られたこと、その後弟子たちに現れ、多くの人々に現れ、最後に使徒の中で最も小さい者であって使徒と呼ばれる価値のない者、教会を迫害した者、罪人のかしらである者、そのような自分にも現て下さり、そして今の自分に変えられたこと、を証ししています。
 二千年を経て、この私にもキリストは現れて下さいました。何の価値も無くとりえも無い、神を知っていたにもかかわらず無視し続け、色々な言い訳を言いながら、自分の好きなように生きていた私に。
 苦しんでいる人がいても、泣いている人がいても、見て見ぬふりをして、自分には関係ないと逃げ回っていました。それが友達であっても、兄弟であっても、大切な親であってもです。最低な者でした。何様のつもりだったのでしょう。
 しかし、神の憐れみは豊かで、一方的な恵みで私を包み込み、その大きな愛の前にただひれ伏すことしかできない瞬間が与えられました。「いい加減にしなさい。あなたが無視をし、逃げ回っているのは、全能なる神であるこのわたしなのだ。」 十字架で私の罪のために死に、甦られたキリストが現れて下さったのです。

 メッセージで語られましたが、パウロと同様に、私もその時から、それまで勝手に大切だと思っていたすべてのものが、何の価値もない無駄なものであることが分かりました。そして神が喜んで下さる人生こそを歩みたいと切に願いました。それは、私の周りにいる隣人を愛し、許し、苦難を共に乗り越えていくことだと思いました。私が何かをするのではなく、神が私を用いて働こうとしてくださることに喜んで従っていく自由が与えられたのです。
 私にとって信仰の継承とはこのようなことです。この無価値でどうしようもない私でも、神が共にいてくださり導いて下されば一つ一つ変えられて成長が与えられるというこです。何度も失敗をし、何度も自分の弱さに嫌気がさし、神が共にいて下さるのに勝手に不安の中に自分を置いて嘆き続ける、そんな母の姿を子ども達は見ていました。しかし同時に何度もへりくだって、悔い改めて、従って、喜んで、感謝する姿も。そしてそのように生きていけば神は必ず最善の道を備えて下さること、何度も立ち上がるチャンスを下さること、回復を待って下さること、をです。
 私たちは何を継承するのでしょうか。神の前にもがいている自分、戦っている自分、悔い改めている自分、そして神ご自身は生きて働いて下さる方であることを胸を張って証しする自分ではないでしょうか。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)