同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 干渉される神 —

kazuko-san

茂永 和子


(写真は 讃美感謝会 から)

「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。
           そうして私たちに知恵の心を得させてください。」(詩篇 90:12)

 この年も3カ月が過ぎ、このところまで変わりなく日々の生活が守られていることを感謝いたします。
 自分の年齢を数える時に、若い時にはあまり想像もできなかった50代という中を歩んでおり、時の過ぎる速さを痛感させられます。
 これまでの信仰生活を振り返って見ると、若い時は一途さや熱心さを持っていたとしても、どこまでも自己中心的であったことを思います。
 自分が思い描いたように歩んでいくことが当然であるかのように思っていたような者でした。それゆえに何か干渉されるようなことは自然と避けてきていました。
 礼拝のメッセージの中で、創世記のヤコブの記事を通し、ヤコブは自分の人生を吟味し、すべての事柄に神とどう関わってきたか、神が干渉して下さった事実を告白していると語られていました。
 私は主人との結婚を通して今の教会に導かれましたが、このところまで先生方には多くのご指導をいただきました。
 自らの至らない部分や頑なな部分に触れられる時、また、叱責を受けなければならない時は、つらく厳しいものではありますが、その関わりがなかったならば何も変わらない自分が居続けたことであります。
 先日の聖書研究会の中でも、私たちと神様との関係は契約関係にあるということ、それゆえ私たちに特別に目を留め、扱って下さることが語られていました。
 そのように扱って下さる神様の前に、いつも心柔らかく従って行くことができるようにと願いますし、自らの弱さや傾向性に注意を払っていかなければならないことを示されています。
 私たちの教会は幼子からお年を召した方々まで集っています。だんだんと年を重ねながら、自分も回りも少しずつ変わっていく中で、先を歩んでおられる方々を見させていただき、また、若い方々とどのように関わりながら共に生かされていくことができるかを考えながら、一歩一歩、歩ませていただきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)