同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 目に見えないもの、見えるもの —

yamada-san

山田 大



「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル 11:27)

 今月、私たちの教会では若い兄姉の結婚という恵みがありました。また、私の娘にも婚約が与えられました。婚約式用の聖書の購入のために娘と一緒にゴスペルショップオアシス仙台店に足を運びながら自らの婚約の時を思い出していました。
私は婚約式に妻に贈った聖句を20数年間すっかり記憶違いしていたのです。妻と婚約式の話題になった時、私が贈った聖書に書かれている聖句を教えられて愕然としたのですが、その御言葉はさておき、当時私が神から導かれていた、そして婚約の聖書に書いたとばかり思っていた御言葉はマタイ6:33
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」
でした。結婚という大事を前に目の前の事柄に目を奪われがちであった私に神はまず大切にするべきものをもう一度しっかり心に留めながらこのところを乗り越えていくように示してくださいました。

 最近、教会の中にある問題を覚えつつ祈らせていただいている時、この御言葉が私の心に甦るかのように活き活きと示されました。
「求めなさい。」
とあるからには祈ることを示されていると思い、何もわかりませんでしたが祈ってみました。繰り返し毎日「神の国とその義」が堅く確かであるように、祈っていく中で、「神の国」とは私にとって何か、と問われました。
私にとってそれは目の前にある教会以外に考えられませんでした。神は、先を歩まれた方々、特に山本光明先生、和子先生の並々ならない御労を通して、この日本の東北の仙台の地に、小さいながらも神の王国と呼べる確かな「神の国」を建てて下さいました。この「神の国」に示されている大儀は「教会建設」であり、その具体策は「家庭建設」そしてその中心は「信仰の継承」です。今でこそ私たちの教会では信仰に入ったばかりの若い兄姉もそのことを簡単に言葉にしますが、繰り返しなされる光明師のお証をうかがう時に、そこに至る道筋には先生方の様々な迷いや労苦があられたことがわかります。私たちは既に築かれた土台の上に一つ一つ教えられた通りに積み上げていく、わからないことも多くありましたが、従いつつその作業を間違いなくし続けていく中に大きな結実を見させていただきました。
「信仰の継承」とは家庭の中で行われていく地道な作業です。いくら外では美しく外観を飾ることが出来ても、家の中ではその人の本質が現れます。一番身近な家族に自らの本質を現しつつ信仰の建て上げをしなくてはならない、「信仰の継承」とは手近ではありますが、最も己自身を問われる道だと思います。

 「神の国」とは教会であり「その義」とは先ほど述べたようなメッセージです。それらを第一に求めることは私にとって、教会が、その初めのメッセージに堅く立ち続けることです。
そのことを日々祈り続ける中で、それが今までのどんな祈りよりも神の御旨と一致して、自らの様々な勝手な願いから解き放たれて、神の望んでおられることを私も祈り、神の願いや悩みとともに私も歩ませていただいている実感が深く与えられるようになりました。ここまで神の確かな導きの中に真実に歩んで来た教会から神は未来を奪うようなことは決してなさらない。
神は真実であり、私たちの真実をご覧になって、「神の国」である教会が立ち続けるために私たちが注意深く真実に取り組んで来た取り組みを無にはなさらない、祈りの中にそのような確信が与えられて来ました。さらに「その義」が堅く建つためには私は何をしなければならないのか、目の前の現実の中で、いよいよ祈りが深く導かれることを、少し恐れつつも、信じて立ち向かいたいと願います。

 冒頭の御言葉は、今年の年頭に与えられたものです。私たちは信仰を具現化しようと取り組みます。目に見えない神が、私たち人間を通してなそうとしておられることをなんとか目に見える形に作り上げていきたいと願います。しかしその取り組みは、目に見えるものではなく目に見えないものに価値を置く取り組みです。

 最近礼拝説教で語られた中に、ヤコブの二人の妻の対比がありました。夫ヤコブにとっては最愛の妻であったが、目に見えるテラフィムを欲したラケルと、父親からはヤコブの労働の対価として売られるように嫁に出され、夫からも愛されず、妹に嫉妬しなければならなかった結婚生活の中に、しかし目に見えない神を夫の中に見出し、自らをそこに置きながら成長が与えられたレア。当初の告白から見える彼女の信仰は、夫ヤコブのものとはかけ離れていましたが、与えられた息子たちへの名前の付け方に彼女の成長が見られ、最後にはアブラハムとサラ、イサクとリベカが葬られたマクペラの墓にヤコブとともに入ることが許された姿に、神がどのようなところを見ておられるのか、を教えていただきました。

 先日、娘が婚約の報告と共に証をしていました。言葉が先を行く者であることは私と同じだと思わされました。が、いつか行いがそれに伴って行く時、神がそれをご覧になって豊かに報いて下さることを、これからも身をもって示していける親でありたいと願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)