同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 待ち望む力 —

saito-san

齊藤 望

「ですから、あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。 あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つものです。」(ヘブル 10:35-39)


  一年は、365日、一か月は30日、一日は24時間、一時間は60分。
書き表せば分かってはいるけど一分一秒の積み重ねが歩んできた道のりである。
 毎日のルーティンの繰り返しが年月を作る。そんなことを考えていた今日この頃。
すきま時間の活用が、できる男の条件であるかの様な本がもてはやされ、3分、5分の間で整理整頓、机上の掃除をすれば仕事の効率も上がるとある。よくと考えてみると一日はすきま時間ばかりである。忙しい現代で時間を有効に使うことは大切であろう。しかし窮屈さは否めない。

 30年以上もそんな生活をしてきたおかげですきま時間の活用は自慢することでもないが得意である。(しかし、妻には不評である。)
計画、実行、実績、評価これがやってきた仕事の内容である。月間実績、年度収支、全ては短期計画の積み重ねでありそれが会社の業績の年間実績となる。そんなことは周知のことであろう。
ところがそのことが信仰生活に大きな影を落としていることに最近気づかされたのである。

 今年は講壇よりアブラハム、イサク、ヤコブの信仰を通してメッセージがなされ、今は「信仰の練達」について語られている。
特に主観からの解放と題されたメッセージの時にはまさに短期収支の中にあった自分が、見出されたのである。聖書を読めばその答えは明らかなのにも関わらず時間の観念が大きく狂っていたために神のご計画がすぐになされたのだと勘違いしていたのである。
アブラムがカランを出てイサクが誕生するまで聖書では数ページの個所ではあるがそこには25年もの歳月があったのである。その間、神は幾度かアブラハムに現れ導いておられた、そうそれは自分自身の生涯と同じように長いスパンの中である神の導きのように。神は直接の語り掛けだけでなく、牧師先生を通して、またほかの人を介して顕現されたのである。

  20歳の時、人生の岐路に立ち将来の選択について思い悩み、頭の中はフローチャートだらけになり訳が分からなくなっていた時期があり、牧師先生に相談に行き「考えることをやめその場で祈り待ち望みなさい。」と導かれたときにはもやもやしていたものが吹っ切れ、今後を祈り待ち望んで期待できるようになったのである。
それから数年後に大きく状況が変化し、新しい道へと導かれるのである。その後も幾度となく状況の変化があり、振り返ってみれば時間はかかり、苦難はありますが祈りが答えられていることを感じて感謝である。

 聖書の時代、時の流れも緩やかであり神との交流も頻繁であるように思えるが、時間は変わりなく、神も変らないとすれば私自身の時間の使い方、特に祈りの時間について再考せられる。
すきま時間が一日のうちどれ位あるかは十分に想像がつく、その時間の一部でもより多く祈りたいものである。
 そして祈りの結実を待ち望みたいものである。

「重要なことは一つだけである。それは祈り続けることである。この道に精進しなければ一切は失敗となる。できるだけ多くの時間を祈りに費やし、できるだけ熱心に祈れ。期待を持って約束を仰ぎ、祝福を求めて信ぜよ。この義務のため力強くあれ。祈りを怠るよう、強い誘惑を受けるであろう。サタンは祈りに身を捧げないものに対してその権力を持ち続けるのである。」   救霊の動力 パジェットウィルクスより
(仙台聖泉キリスト教会会員)