同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 「同労者」の刊行を続けて —

野澤 睦雄



「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ 2:13)

  本誌は今月、2019年1月で231号となりました。今年中に実現予定の ・・あと9回後・・240号を発行出来れば、20年続けることが許されたことになります。正確には、家内が召された月に1回休みましたので1ヶ月ずれていますが。
 これだけの長く続けることができたことは、神がこれを「嘉い・・古いことばでは、嘉(よみ)された」とお考えくださっていると確信しています。
 雑誌ですから原稿を書いていただかないと続きません。執筆してくださる兄姉に原稿を依頼すると「とにかく・・苦し紛れでも」断らずに書いてくださいました。
 執筆者もはじめのころの方々が親となり、その親から子へと世代交代が進んでいます。
さらに感謝なことは、原稿が、月日が経つうちに充実したものとなっていることです。もちろん、それはひとの顔の変化同様短期間で変わるものではありませんし、同じひとでも、野球でバッターとして立つ場合に似て、ヒットもあれば凡打、三振もありますが。
しかし、こうして振り返ってみるとき、原稿を書くことに挑戦し続けてくださったかたがたの信仰の成長が、書いた原稿に表れています。その成長が、若い方々の方が年の進んだかたがたより速いと感じます。これは親御さんたちにとって非常に喜ばしいことでしょう。

 東北教役者会・・先生方の勉強会にあたると思います・・が年に1回開催されます。信徒もご参加くださいとの案内ですので、私も結構参加させていただくのですが、ある先生に、「教会の中で育ったクリスチャン家庭の子供たちは、よい働きをする、力のある人になりますね。」とお話したら、「不信者の世界から救われた人の信仰はすっきりしているが、教会の中で育った人の信仰はどうもあいまいだとよく言われていますよ。」とのお返事でした。それが日本のキリスト教会の通説になっているということでしょう。それは非常に悲しむべきことです。
 それでその理由を考えずにはいられません。自分の信仰を振り返ってみること、教会で育った若者たちの姿を観察することによって、次のようなことに考えがゆきます。教会の中で育ったひとは、救われる、つまり罪を赦され(義認)、新しく生まれる(新生)恵に与っていなくても、他の信者と同じように振る舞っていることができるということです。そういうひとが信者として教会の中にいるので「どうもあいまいだ」という評価が生まれるのではあるまいかと考えさせられます。

 幸いなことに、原稿を書いてくださる若い方々たちはひとり残らず、ユダヤ人たちがバプテスマのヨハネのところに行って、自分の罪を言い表してバプテスマを受けたように、牧師のところに行って自分の罪を言い表し、十字架を信じて救いに与りました。そして牧師と師弟の関係になりました。

 イエスの宣教命令の第一は、「弟子にしなさい。」でした。
信者が牧師を学校の先生のように考えるけれども「師弟」の関係になれないことが、日本の教会の隘路(あいろ)となっていると思います。

個別の例外は抜きにして、全体をひとまとめに扱うなら、先生と生徒の関係は「知識の授受」が中心です。師弟関係はより人格的関係で、良くても悪くても先生のことばに従い、それによって訓練されて、その道に上達するのです。先生から「免許皆伝」を受けてはじめて自分の道に進みます。実際は、免許皆伝というほどに信仰の道に練達しなくても、もうお年だから分け入って指導という訳にはいかない、と先生がお考えで何もおっしゃらなくなるケースが多いでしょうが。
自ら進んで先生に道を尋ねる人には、いつまでも先生の指導があります。

 若者であったひとたちも、親になる方々が増えてきました。彼らはなお先生の指導をいただいて、信仰の練達に勤しんでいます。

 「同労者」の原稿を書くことには、自分の信仰の整理ができる利点があります。自分を格好良く見せようと思って粉飾してみても、そううまくいくものではありません。昔から言われているとおり、文章は書いた人を表します。それが、書いた人の信仰の訓練に繋がっていると思います。また文章を書くことに馴れ、書けるようになります。
 迎えました年も、内容の善し悪しよりも、どのような信仰の歩みをしているのか、どのような取り組みをしているのか、それが真実にあらわされる、そういう原稿が書かれ続けることを期待しています。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)