同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— ヘブロンと野付牛 —


 聖泉連合、50周年を祝おうという話がでている。この群れの信仰の父は山本岩次郎牧師であることは論を待たない。そんなことを考えるとき、信仰の父アブラハムと山本岩次郎牧師の信仰の足跡に思いがゆくが、ヘブロンと野付牛という二つの町の名がこころに浮かぶのである。私たちはそこに何を見るのか問われる。

 まずなぜヘブロンか、少し紙面を割きたい。アブラハムは神にカナンの地を巡るように言われたが、彼の信仰の旅路にヘブロンとモリヤ山という二つの注目すべきところがあった。
 アブラハムが長い間住んでいたのはヘブロンで、そこにエモリ人マムレの樫の木があった。神に「星を見上げてごらん。」と言われ、神を信じたのはそこにおいてであった。捕虜となったロトを救出に出陣したのもそこからでマムレと近隣の民が加勢してくれた。ソドムとゴモラの滅びを聞かされたのもそこであった。そこでサラが死に、ヘテ人エフロンからマクペラの洞穴と隣接の畑地を買い取って墓地とした。そこにサラを葬ったが、アブラハム、イサクとリベカ、ヤコブとレアがその墓地に葬られた。

 もう一つの地は、モリヤの山である。彼はそこでイサクを神に捧げた。モリヤ山はダビデの時にはエブス人アラウナの脱穀場となっていた。ダビデがそこを買い取って祭壇を築いた。そしてそこにソロモンが神殿を建てた。

 過日の礼拝説教に、ことばは違うがこう語られた。カレブはカナンの偵察に派遣されて、ヘブロンのマクペラの洞穴を見てきたに違いない。そしてきっとこの地を自分の所有としてもらおうと思った、と。
 その背景はこうである。
イスラエル人はエジプトをでて丁度1年後に、カナンの地の境界であるカデシュ・バルネヤまでやってきて、そこで過越の生け贄をささげた。そして、さあカナン・・エモリ人の山地・・に攻め上れ、と神に言われた。
ところがイスラエルの民は、その前に偵察隊を出してそこを調べさせようと提案した。それでモーセはエフライム族のヨシュア、ユダ族のカレブ以下、各部族から一人づづ選んで12人を偵察に出した。全員の名が民数記に記されている。

彼らが偵察してきた地が書かれていて、ヘブロンにもいったとある。
 偵察隊の報告したものはなんであったか?意見が分かれた。
少数派はカレブとヨシュア、
「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」(民数記 13:30)
多数派は残り全員、
 多数派の見てきたものは、実り豊かな土地であるが、そこに住む人々の城壁は高く、人の背丈が高く、自分たちがイナゴの様に見えた、であった。彼らが鉄の武器を持っていることも見たことであろう。
 ヨシュアとカレブの見てきたものは、信仰の父アブラハムの足跡であり、神が下さると約束された地、であった。

 イスラエルの民は多数派の意見をきき、カナンの地に入っていかなかった。それで神は、出エジプトしたとき20歳以上であった人々が死に絶えるまで、40年間イスラエルに荒野の旅をさせた。

 さて話を山本岩次郎牧師に移すが、佐渡出身の方である。私は2年数ヶ月荒川教会の祈祷会に出席し、直接多くのことを聴く機会をえた。
第一の重要な足跡は師の野付牛におけるきよめの経験である。
救われて牧師になったが、当時は神経衰弱といった、こころが疲れて何も出来ない状況となり、実家に帰って休養したことなどもあったと聞いた。
野付牛のことを師はこう語っていた。
野付牛に派遣されて、神学校で教わったとおりのことをガンガン説教したら、出席する信者は毎回ただただ悔い改めをすることになり、やがて誰も来なくなった。
ちょうどその時派遣してくれた教団が二つに割れてしまい、事務が滞った。信者が来ないから献金もなく、教団からの支援もない。それで1週間水だけ飲んで過ごした。信者が来ないから教会の扉も閉めっぱなしであった。
外を歩いて帰ってきたら、長女(寛子先生、故人)がころんで頭に怪我をしていた。
家内が「不行き届きでした。ごめんなさい。」と詫びるかと思ったら何も言わない。
それが面白くなくて悶々とした思いになった。
そのまま床についたが眠れず、夜中にそういえば家内にはこう言うことがある、ああいうことがある、・・と家内の悪い点を数え上げた。するとそのとき神がこう言われた。

「それがお前だ!」

それで直ちに悔い改め、家内にも申し訳なかったと詫びた。その時きよめの恵に与った。
そして、私に与えられる子どもは全部献身させますと神に誓った。

真のきよめに与った時から、多くの事柄が変わった。特に弱い人々とも歩める者となった。と。

 その後山本岩次郎牧師は銚子の教会に派遣された。更に淀橋教会で小原十三司牧師の副牧師をした。
時は戦争の時代で、徴兵検査があったが、神は不思議な方法で従軍しないで済むようにされた。
徴兵検査の直前に深い咳をするようになり、レントゲン写真に影が映り、医者が結核と診断した。 それで軍隊に行かないで済んだ。
やがて、(今韓国人が騒いでいる)徴用工になり、仙台市長町に移り住んで、溶接工をして敗戦の時を迎えた。

 終戦となるとすぐに1945年のうちに東京に戻り、蔦田二雄牧師とイムマヌエル綜合伝道団を創立した。そしてはじめ船橋教会で御用をした。
蔦田牧師の義理の兄弟である岩城幸策牧師が外地から帰ってきたとき、1948年、山本牧師は船橋教会を岩城牧師に委ね、自分は東京の荒川で開拓伝道を開始した。
そのときのことを師はこう語る。
「巡りて北に進め」というみことばがあった。それで北はどこかと考えた。東京の荒川はキリスト教界で名の知れた実を結ばない荒れ地であった。船橋からは北なのでそこがよかろうと思った。

荒川教会は、1951年(3年目)の礼拝出席者46名、伝道会35名、祈祷会28名、1965年(17年目)礼拝157名伝道会112名、祈祷会104名と言う報告を秋山光雄牧師(故人)が本誌に載せている。
後になるが、私が荒川教会に出席したとき、礼拝250名、伝道会200名、祈祷会150名に達したと山本牧師から感謝が述べられていた。

 山本岩次郎牧師の伝道はそのように祝されたが、師には神に果たさなければならない問題があった。
長男(光明牧師)の献身であった。
山本光明牧師が献身を決断したその年、1月からずっと毎晩夜中に起きて会堂に行き祈った。
「神よ。息子が献身しなかったら、私は何を説教できるでしょう?その説教は力のないものとなってしまいます。」
山本岩次郎牧師はそのことについて、モリヤの山のアブラハムに自分を重ねた。祈りは聞き入れられて、山本光明牧師は献身した。
世の多くの教会の牧師の子どもたちが牧師になることを嫌がる理由は、親が貧乏だからだといわれる。牧師になってお金のない生活をするのはいやだと。
しかし、山本光明牧師は献身したくない理由をこう述べていた。「信者をとことん愛した父を見た。しかし信者に愛されなかった。だから私は信者にはなっても牧師になることはいやだった。」
それで私は皆さんに勧めて、先生を愛し、先生の「同労者」になりましょうと働きかけている。

 話がもどるが、山本岩次郎牧師の大切にしたものは、野付牛での経験にはじまったきよめの生涯である。
カレブが信仰の父アブラハムの信仰の足跡としてヘブロンのマクペラの洞穴を見てきたように、私たちは山本岩次郎牧師のきよめの生涯の原点である野付牛の経験をよく見定め、そこに聖泉連合のむれ全体の原点があることをみるとよい。

私たちはインマヌエル教団と別れたが、教会の政治形態を変えたかったのではない。
蔦田牧師はジョン・ウェスレーとそれに続いたひとびとの信じた教理をそのまま教えた。
神はウェスレーをよしとされたのだから、蔦田牧師の教理が違ったのではない。
山本岩次郎牧師を決断させたのは、きよめの「実践」の違いであった。
入口である野付牛の経験とそれに続くきよめの実践を私たちのものとさせて頂きたいと願う。
きよめの経験と実践が同一となったら、インマヌエル教団の人々とも組織はひとつにならないであろうが同じ仲間なのである。