同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 神のみ旨と祈りの関係 —


 皆さんはこんなことに興味が沸かないのだろうか?
神が「こうする」とお決めになったことなのに、それが実現するように一生懸命祈っている聖書の記事があることである。

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(ヤコブ 5:17-18)

ヤコブが引用しているできごとの前半、雨を降らせないための祈りについては、ヤコブの言及以外何も書かれていない。突然エリヤがこう宣言している。
「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」 (列王記Ⅰ 17:1)

その通り雨が降らなくなったので、イスラエル王国は、大変な飢饉となった。

 後半の雨を降らせるということについては、神がエリヤに言ったことが書かれている。
「それから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」」(列王記Ⅰ 18:1)

 雨を降らせると神がお決めになっていることなのに、なぜエリヤの苦祷といえる真剣な長い時間をかけての祈りが必要だったのか?
雨を降らせていただくための祈りの前に、祭壇に天からの火をもって祈りに答える神を神としようと、イスラエルの人々を呼び集め、バアルの祭司たちと対決したことが書かれている。

それから彼は祈った。
「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。」(列王記Ⅰ 18:41-45)

 雨を降らせるのが神のみこころなのだから、なにも祈らなくても雨は降ったのか?
ヤコブが語っていることは、もしエリヤが祈らなかったら雨は降らなかったということである。

 モーセは十戒をいただくために40日の断食祈祷をした。
神がそれを与えようと言われたので、モーセは祈ったに違いない。
「主がシナイ山の頂に降りて来られ、主がモーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。」(出エジプト記 19:20)
「私が石の板、主があなたがたと結ばれた契約の板を受けるために、山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず、水も飲まなかった。その後、主は神の指で書きしるされた石の板二枚を私に授けられた。その上には、あの集まりの日に主が山で火の中から、あなたがたに告げられたことばが、ことごとく、そのまま書かれてあった。こうして四十日四十夜の終わりに、主がその二枚の石の板、契約の板を私に授けられた。」(申命記 9:9-11)

モーセの断食祈祷は1回で済まなかった。「私は向き直って山から降りた。山は火で燃えていた。二枚の契約の板は、私の両手にあった。 私が見ると、見よ、あなたがたはあなたがたの神、主に罪を犯して、自分たちのために鋳物の子牛を造り、主があなたがたに命じられた道から早くもそれてしまっていた。それで私はその二枚の板をつかみ、両手でそれを投げつけ、あなたがたの目の前でこれを打ち砕いた。そして私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず、水も飲まなかった。あなたがたが主の目の前に悪を行い、御怒りを引き起こした、その犯したすべての罪のためであり、主が怒ってあなたがたを根絶やしにしようとされた激しい憤りを私が恐れたからだった。そのときも、主は私の願いを聞き入れられた。」(申命記 9:15-19)

 モーセの祈りは、私たちには及びもつかない。神のみ旨の実現のためにこれほど真剣になれたらすごい。

 もしもエリヤもモーセも祈らなかったら
「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌Ⅱ 16:9)
 神はご自分のみ旨の実現のために、あまねく全地を見渡し、代わりの祈り手を探されることだろう。

 神のみ旨は私たちを幸せにすることである。
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」 (ヨハネⅠ 5:14-15)

神のみ旨である私たちの幸せもそれを受けるために、切実な祈りが必要なのは同じである。