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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-93

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 18章

 17章と18章は時を移さず直ぐに起こった話で、サウルとダビデの関係がもう一度語られたところである。
神によってすでに王の座から退けられた者と次に王として迎えられるものの姿がそこにある。
ダビデは油注ぎを受けた後、その日々が激変したわけではなかった。サムエルがこれからどのように王になっていくのかを細かく伝えたわけでもなく、琴を弾くものとしてサウルの下に呼ばれながらも、帰されれば羊飼いの生活へと戻るというような毎日を送っていた。
そこから転機としてゴリアテとの戦いが起こり、彼は信仰によって勝利を収めた。ここで初めてサウルに正式に召し抱えられ、日常が変化し始めたのである。神はダビデをサウロのそばに置き続けた。その理由は先月も語ったが、ダビデの存在がサウルに感化を与えていたからである。サウルはどうしても人の言葉に動かされ、人からの賞賛を求めている。その姿こそが神によって王の座から退けられた理由の一つである。だからこそ神はダビデを通して彼にそのことを示していることがここに現れている。サウルは神を畏れるのではなく、現実と人を恐れていた。その罪が最悪の状態に陥ることにならないよう神は願っておられ、もしもう一度サウルが立ち帰るならばそのチャンスをも用意されていたのである。
私たちも同様に神がしてくださる時が有る。誰かを通して私たちが大きな過ちを犯す前に注意勧告を与えてくださるのである。だからこそ、私たちはその注意勧告を聞き逃すことがない様に注意していかなければならないし、時には誰かを通して言われたことをもう一度吟味し、気づいたならば直していかなければならないのである。この箇所にはその神がなされる立ち返りのチャンスが有る事、そこにある神の哀れみが書かれている。
神は本来わざわざ人間の手を借りずにことを起こすことがお出来になる。ならばなぜ私たちを召し、一人一人に役目を与えてくださるのだろうか。それは私たちが神の働きをすることで、自分の弱さや是正されなければならない問題に直面し、それを改める中で人格に成長が与えられていくからである。神は私たちが豊かになることを望み召してくださっているのである。また同時に私たちがそれらの問題を乗り越えていくと、自らの成長を自覚するときが与えられる。それは更に神をあがめることが出来る時となり、その人の歩みが神に向き、より豊かな信仰が生まれていくきっかけになるのである。
このきっかけこそが私たちに与えられる神からの変革のチャンスなのである。しかしそうならなければサウルのように滅びの一途をたどらなければならなくなってしまう。
サウルは人からの評価から離れることが出来なかった。その故に人々の「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(7節)と言う言葉に揺さぶられてしまったのである。そして本来ならばこれから神の霊を持ち、神の働きを行うダビデを召し抱えることでこの国をさらに豊かにしようとしていたのにも関わらず、嫉妬からダビデを殺そうと画策していくようになってしまうのである。もちろんここにも神はすぐにでも滅んでしまうことが無いようヨナタンと言う存在をも用意しておられた。しかしそれでもサウルは神のもとに立ち返ることが出来ず、変革される事も無くどんどんと神から離れてしまったのである。人間の弱さがこの箇所から明らかになっている。だからこそこのサウルとダビデの姿を見るときに、私たちはなお自らにもあるその弱さに注意を払っていくことが求められる。


Q:先ほどサウルが自分の問題を改善するのではなく、棚上げにしたまま行動してしまっているということが語られましたが、サウルはこのことを自分であまり意識していない印象を受けるのですが?

A:人間それぞれの傾向が有ると思う。同時に、あの人がどうかこの人はどうなのかは必要なく自分自身の問題としてどれだけそのことを捉えているかなのである。私は先ほどダビデがサウルに感化を与えていたことを語ったが、それは違う面からとらえるならば、サウル自身も感化を受けようという環境を整えていたのではと言うとらえ方もできるのである。サウルはすべてを放棄していたわけではない。それは私たちの行動は0か100ではないように。黒か白かではなくグレーが存在するのである。サウルの行動もそうだった。しかしだからと言って私たちもグレーでいる事を良しとしてはならないし、自分の状況を甘くとらえていてはならないのである。そして自分の行動を見極め、自分で注意していかなければならない。特に人間は対人になった時に自分の姿が現れる。誰かに頼みごとをされたときになぜ自分がと文句を言う人がいる。しかしそこに注意していかなければならない。それは最悪人への文句だけでなく、任されたことが神の意志だとしたら、神への文句にもなりうるのである。私たちの生活がどのようになっていようともそこに神の意志が働いていることを恐れていかなければならない。神は人を介して私たちの弱さを指摘される。その時に私たちは自分を吟味して、その文句や思いを消化していかなければならない。自分自身の心の弱さに嫌悪していかなければならない。腹が立つことが有ってもそれをどう切り替えていくか、その人との関係をどう良好に導いていくか。その心の営みが必要になっていくのである。それは日々続けることで心に波風立つことがなくなってくるのである。そしてその問題を確かに超えることが出来た時、本当の幸福感が与えられていくのである。


Q:ダビデはサウルを愛していたからこそ、彼らの関係が様々な場面で成り立っていたのでしょうか。それともダビデは何か考えが有って、愛などの感情を抜きにして、自らが王となっていくために一種の戦略として行動していたのでしょうか?

A:どのように聖書を捉えていくか。また愛するという言葉をどのように考えるかという事で答えが変わってくる。 ダビデはサウルに手を直接掛けないということを貫き通した。それは神への信仰の姿勢であると同時にサウルへの愛ゆえの姿勢だったともいえるだろう。戦略は悪を図るものと良いもの、最善を推しはかるものとがある。ダビデの戦略には私は不純さをあまり感じない。彼は自分が王として立っていくために必要な策を講じていた部分はある。それは神によって決まっていたからと言って、無策、怠惰でいてはいけないからである。逆に考えていくならば、彼が王として立っていくまでの期間に何を成していたのか、どのような営みをしていたかという事を考え、捉えていくと良いと思う。若いうちから周りを観察して、意見を聞きつつ、人との関りやどのように自分が動いていくべきか自分の先の働きを考えていく必要がある。
ダビデは王になってそれで終わったわけではない、その先こそが本格的に働き始めていくところになっていく。ダビデの王になるまでに培った人間関係がそのままダビデを支える側近として大臣や重要なポジションの人間となっている。という事は王になる前から彼はそのような人たちを周りに置いていたし、その人たちへの配慮を欠かさなかったのである。 私自身も若い時から熟考することを行っていた。ただのんびりと何も考えずにいては今後起こってくることに対処できないし導かれた責任を果たすことはできない。だからこそ決して無策でいてはいけない。常に物事を考えていくことや先を見据えて手を打っておくことが必要なのである。


Q:サウルは神に仕えるより、民に仕え、民の顔色を窺って行動しているようなところが有ると思うのですが、ダビデが出てきて、彼が神の働きをしながらも民にも好かれているという状況に、サウルにはどのような考えが有って彼を殺そうとしたのですか?

A:究極は彼の王位が危ないという所である。彼は神の使命によって王になったのにもかかわらず、その王位が神ではなく民によって支えられていると思い込んでしまった。それゆえに彼の王位は民とその支持を受ける自分の力によって成り立っているという考え方になってしまったのである。だからこそダビデと言う民の人気を奪っていく存在が現れた時に自分の王位が危ないと考え、生活がくるってしまったのである。私たち自身もそのような一面がある。私たちの生活は神を信じる信仰によって成り立つものである。しかし、それがいつの間にか他のもので支えられている様であってはいけないのである。例えば普段は信仰によって生きていると言いながらも、いざお金がないとか、目に見える問題に直面すると、所持金が極端に目減りしてくると結局それへの依存を捨てることが出来ないのである。本当に信仰が有るものは、何か問題に直面しても神が支えてくださるという信仰による確信によって不安を抱え続けることなく日々を送ることが出来る。また更に言うならば神を支えにしているとそれがどのように神によって変わっていくのか、助けられていくのかを忍耐を持って見守っていくことが出来る。そしてどこからか救いの手が現れることや変化が起こって神によって助けられていくのである。だからこそ私達にとって一番怖いことは、仕事やお金がなくなることや事がうまく進まないということではない。何度も言うが神から離れてしまうことである。そのことに注意していかなければならない。


Q:先日礼拝でシメオンがイスラエルの安らぎを求めていたのは心が聖霊によってうごかされていたからだ(ルカ2章25節)と語られていましたが、聖霊によって心が動かされるのと自分勝手で決めてしまうこと、その二つの違いとは何なのでしょうか?

A:シメオンはほぼ人生の晩年の姿である。同時に彼はまだ旧約の人物なのである。しかし、彼はすでに聖霊を宿していた。新約と旧約で聖霊の働きは違う。新約での聖霊の働きは主に私たちの心に神の救いをイエスキリストの十字架によって与えられたことを語り掛け、私たちの心を生かすようにする働きである。旧約の聖霊は特別な使命を果たさせるものである。もちろん新約でも弟子たちの上に炎のような分かれた舌が現れた(使徒の働き2章3節)という出来事のように特別な働きをするものもあるため全然無いとは言わない。しかしおおむね新約の聖霊は先ほど語ったような働きをするものである。シメオンに宿ったのが旧約の聖霊だと考えるならば、彼には特別な啓示が与えられたのだと言えるだろう。シメオンは旧約聖書を読む中で聖霊を通してメシヤが救い主であり、贖い主であることが解っていたのである。私たちには信仰と啓示が結びつき、啓示されたことが聖霊によって私たちの中で引っかかりとして残る瞬間が与えられる。それが起こってくると信仰生活の中で活かすことが出来るようになる。マリヤはイエスキリストが十字架にかかる前にナルドの香油を割って葬りの準備をした(ヨハネ12章3節)。しかしマリヤ自身がイエスキリストの葬りのために行いましたと宣言したわけではなく、イエスキリストがその事を捉え、私の葬りのためにしたのだと語っているため、彼女自身の信仰による心の動きを詳しく正確にとらえることはできない。しかし彼女がイエスキリストのそばでその話を真剣に聞いていたという事実から、彼女がその話を通して啓示を受け取っていたと考えられるのである。だからこそマリヤの行動の理由は啓示と信仰が結びつく瞬間が与えられたゆえであると私は考えるのである。私たちの信仰生活の中でもこのような機会があり、起こった出来事の中に神を見出し、感謝を覚えることや自らの中に変化が与えられていくことが有る。シメオンは啓示と信仰から世は贖われなければならない事実とキリストの十字架を見ないうちにすでに自らの罪がこの幼子によって贖われることを信じ知ったのである。だからこそ彼はその幼子を抱けることを喜び、感謝し自らのこれから迎える死をも受け入れることが出来るようになったのである。イスラエルに必要な慰めは救い主が来てローマを倒し、パンで人々を養い、どんどんと彼らの生活を変えていくというサクセスストーリではなかった。必要だったのは贖いだったのである。そのことを悟ることが出来た人物のみがこの出来事を心から喜び、感謝し自らの救いを迎えることが出来たのである。


Q:普段の生活の中で、時々どうしても納められない悩みなどが出てくることが有って、それを解消するためにどうしても周りをも巻き込んでしまったり、振り回してしまったりする時が有るのですがどのようにしていったら良いのでしょうか?

A:怒りなどの感情をどのように収めていくか、どのように対峙していくか。自分の考えがどんどんと膨れてしまって、収拾できなくなってしまうという事がある。悪い方向に考えてしまうのはあまりよくないが、考え続けて時には家族をも巻き込むようなことも必要であると私は思う。家族だからこそ出来るという事もあるし、互いに覆っていくことも必要だと考えるのである。若い時は色々なことを考えて行動してみること、時には挑戦してみることも必要だと思う。悪さも時には必要である。自らの悪さの巻き起こす問題や、被害の大きさを目にしておくことも悪さという事を理解するためには必要である。若い内なら若さによる愚かさで覆ってもらえたり、その故に穏便に対処してもらえたりする部分が有る。しかしそれを知らずに成長してからの悪辣さによる被害は大きい。責任を伴っているゆえに周りもきつい反応をする。だから若いうちに経験しておくべきだと思う。それは伴侶者ができた時に、相手の悩みに共に寄り添い、取り組むときに必要になってくる。共に成長していくために相手の問題を覆うことも有るのである。愛は相手の苦しみを共に担ってあげられるかである。そのような取り組みのためにも、若いうちに経験しておくべきである。


Q:自分の中に劣等感を持ってしまうことがある。お祈りや、証、賛美の御用など自分で出来ない所に不安や反省が多く、悩んでしまう時が有る。何で自分は出来ないのかとそういう受け取り方は良いのですか。どのようにそのことを消化していくべきでしょうか?

A:究極の劣等感は悪いが、自分を成長させるための起爆剤としているならいいと思う。あなたは信仰生活を始めたばかりで、今すぐに先を進んでいる人たちに追いつこうとするのは難しいものである。しかし年齢で考えれば、まだあなたがその人たちの年齢に追いつくまでにはあと20年ほどある。そこまでにあなたも成長していけばいいと考えればそんなに大変ではないだろう。勿論その間ずっとこの劣等感を抱えていなければならないのですかと思うかもしれない。しかしそうはならない。私はよく若い人に言っているが、困難や問題課題に出会うと何年も続くものと思いやすいがそんなものではない。意外とあっさり終わってしまうことが多い。それでも大変なことには変わりないだろう。ならば、まずあなたの隣にいる旦那さんに相談したり、その感情を上手く吐き出したりしてみることが必要だろう。また私達が賛美し、働くのは決して他人に見せるためのものではない。それは神に献げるものとして、私たちの思いを差し出すのである。上手下手ではないのである。それは一面プロと言われる人から見れば「なんだそんなレベルで」と思われるものかもしれない。だからこそ私たちが大切にしているのはその御用にどのように信仰を持って取り組んでいくかなのである。ぜひ今後も賛美の御用に豊かに参加していただきたいと願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)