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質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-94

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山本 咲


サムエル記Ⅰ 19章

 この章では一連のダビデとサウルの問題が細かく物語のように描き出されている。
私たちの個人的な日々の生活の中にも神の御業が働かれていることを見ることが出来るが、当時も当然神の御旨が行われていた。 この箇所にしるされているのはその中でも神の導きが豊かに表され、国という大きく複雑かつ人々の生活を直接的に左右する問題に神がどのように関わっておられたのかということである。
特にサウルの失脚から、ダビデが王として立つまでの事柄が語られ、ここに現れている神の御業に焦点が当てられている。

 様々なことが語られている中、私が今回取り上げるのは、ヨナタンについてである。彼はサウルとダビデの間を取り持つ存在として示されている。
 本来ならばヨナタンが次の王としての立場にあるが、彼は自らが立つことよりも信仰によってダビデが王として立つことを望み、自らの役割は二人を取り持つことだと考えていた。
それは利害でその方がいいと考えていたとも見えるかもしれないが、私たちは彼が信仰をもって隣人である二人のことを愛していたからだと聖書が示すとおり捉えていきたい。
 彼がどんな状況であろうとも父親としてサウルに尊敬と愛を持って仕え続けた姿がこの後の様々な場面で見られている。
それはたとえ自らの命を捧げることになるような出来事であっても彼は変わらず、なおも従い続けたのである。
同時に彼は友情と言う形でダビデを愛し続け、どんなに困難な状況におかれても二人の板挟みとなって苦しみの中も変わらない姿勢をとり続けたのである。敬うべきサウルの命令であっても最善であるならばダビデをかくまうこともいとわなかった。

 困難の中にあると私たちは、時に手を引くという事をする。自らを退ける理由は賢ければ賢いほど簡単に見つけ出せる。
しかし私たちは逃げるのではなく、神が許されている状況であるという事を信じ、与えられた知恵や賜物によってそこに身を置いていかなければならない。私たちは神を信じれば信じるほど、難しい状況に追い込まれて行くことがある。
 しかし、その中で信仰を持ってどのように対応していくべきか、私たちの信仰生活の実践がそこにある。
だからこそ、どのように向き合っていくのかを考えていかなければならない。
 ヨナタンは二人の間に身を置き、苦しみながらも対峙したことによって6節のサウルの言葉を引き出している。彼はその説得に成功したのである。第三者的に読んでいる私たちにとってみればサウルはまたすぐにダビデを殺そうとするのだから彼の働きは徒労となるだろうと考えてしまう。しかし実際は違う。私たちが考える様にダビデも当然サウルがまた殺そうとすることは予測できただろう。しかしその中でもダビデがサウルの下にもう一度戻り、仕えようとしたのはヨナタンのとりなしの真実な姿に、彼も神を信じつつ応えようとしたからである。

 リスクはやたらに背負うものではないことは事実である。
承知してそれを遠ざけておくこともまた必要なことで賢いことである。
しかし、信仰者同士がその中で愛をもって接するときにそのリスクすらも背負い合い、真実を持って神を間に置いた豊かな関係を築いていけるのである。

 私たちも夫婦にしても、家族にしても、教会の兄姉との交わりにしても、そこに神を置き続けた愛のある関係を築き続け、更にその信仰をお互いに増し加えさせていただきたく願う。
そして私たちはこの書を読むときに相手に真実であるとはどういうことであるのか、愛ある関係とはどのようなものなのかを考えさせていただきたい。
そして真実にとりなしたヨナタンとそれを受け真実に応えたダビデのように互いの間でこの信仰者の関係を築き上げていきたく願う。


Q :先日イーグルスの野球の納会が有り、その中で老牧師が「あなたはキツネなのかタヌキなのか」と語られたのですがどのような意味で言ったのでしょうか。

A:老牧師はとっつきにくさや決めてかかられることが有るが、それをも受け止め承知の上で関わりを持とうとすると得られる良いものが有ると言える。
老牧師の言葉には理解できずに悩むことも多くあると思う。しかし、それを乗り越えた人は良い信仰の経験者のエッセンスを受けることが出来る。関わりを持とうと取り組んでみるといいのではないだろうか。
今日話したように怖いや、なかなかとっつきにくいと避けてしまえば本来得られるものをも得ずに終わってしまうだろう。しかし価値をそこに見出して取り組んでみるならば、得られるものが多くあるだろう。
取り組みには必ず成果がついてくる。信じてまずは取り組んでみるといいのではないだろうか。


Q:今日の所でヨナタンは、説得しても心変わりをするかもしれないと予測しながらもサウルのそばにダビデを置いていたり、その時々に最善を捉えているように私には見えました。彼の行動の根幹には友情だけでなく、神への信仰があったと考えてよろしいのでしょうか。

A:ヨナタンの行動は人道的な友情によるものではなく、神を含め、信仰を通じた友情によって生まれたものである。
彼は神を畏れ、敬い、愛するゆえにこれらのことを行ったと私は考える。このヨナタンの行動は多くの国益をもたらしている。
しかし先ほども言ったように、彼が利益を考えて行動したわけではない。
彼はあくまでも信仰によってその正しきことを行ったのである。
しかし私たちが日々の営みの中で信仰者としての姿勢で仕事をし、そこに報酬をもらうように、彼もまたそれによって報酬を受けていたのに過ぎないようにも見えるのである。しかしここで評価を一番に求めていると私達はそちらに考えが偏ってしまう。
そして報いが得られなかったときに躓いてしまうのである。
しかし、ヨナタンのように信仰を一番にしているものは評価が得られずとも自らの歩みを止めることはない。決してそれだけに惑わされない。
そして歩みを進めていくなら最後はその信仰により実践することのゆえに神が豊かに報い、私たちの行いに必ず答えてくださるのである。


Q:サウルは誓ってあまり時がたたないうちにダビデを槍で殺そうとするなどの様子が見られますが、そこに霊が働かれたと書かれているのをみると、神の何らかの意志が働かれたと考えてもいいのでしょうか。

A:聖書の読み方に関しては、信仰書などを用いて神学的にとらえるなど、様々な解釈ができる。
しかし一つ言えるのは神の御意志が働かれていないことは存在しないという事である。神の許しが無ければすべてのことは起こらない。しかし悪を神が先導することは決してないと聖書の中で語られている。
だからこそこの様な箇所を読むときに注意しなければならないのは、私たちがこれによって自らの失敗や罪、色々な問題を正当化してしまうことである。
神の御意志が働き、許されているから私はそのようにしてしまったと考える人がいるが、そのようにして自らを許してしまうと本来向き合うべき問題に取り組むこともできず、生活を変えることなく結局は同じ過ちを繰り返してしまうという事につながるのである。
サウルの問題点は自らの過ちを放置したことである。先ほど読んだ箇所の中でサムエルが再び出てきているがこの時のサウルとサムエルの関係は断絶されたような状況だった。
それを修復し、再び関係を正常化する必要があった。しかしサウルはそれを放置し、自らにとって都合の良い状況を作り出していたのである。サウルはもう手遅れのような状況にあった。
自らを改善していくにはもうその性質が固まってしまい、そこから身動きが出来ないような状況になってしまったのである。
 本当の謙遜は自らを本気で謙らせ、この人になぜ言われなければならないのかと言う状況の中で自らを従わせ、その指摘されたことを受け入れることなのである。これは本当に難しい。
しかしそのような中で私たちが良き営みが出来るのは、この世が神のシステムによって構築されているからである。
神を信じ、その教えに生きるものが世の中でもその力を表すことが出来る。もちろん神のシステムをほかの方面から、例えば成功の秘訣などと言う形で知っている人もいる。だからこそ中途半端な信仰者よりもよっぽど世の中で成功する人がいるのも事実である。
しかし本当にそのシステムを理解しているのは神の表す信仰に生きるものだけなのである。
私たちはまず家庭の中でこのことを大切に取り扱っていかなければならない。
なぜなら子どもがそのことを受け継ぐからである。家庭が中途半端な信仰に生きているのであれば、子どももまた中途半端な信仰者になってしまう。しかしそこを注意して歩み、家全体が神を敬い、畏れを持って信仰を全うするならば、確かにその信仰が受け継がれていくのである。そしてそのような姿勢を持つ親を見て、子どもは同時にその信仰のゆえに親を敬うことが出来る。
またその反面たとえ親の愚かさが見えたとしてもそれを攻め立ててあざ笑うのではなく、自分の中にもその要素が有るのだと注意し遜って自らを変革していくことが出来るようになるのである。
愚かな人を愚かと言うのは簡単である。
しかしその愚かさを見て、自らを変革していくことは難しい。だからこそ親は子どもの中にそのような傾向が見られたときには早めに対処をしていく必要がある。考えや性質が凝り固まってしまう前にその問題の片鱗が見えたならテコ入れをして是正していくべきだと私は思う。


Q:礼拝の中でユダヤ人の成功は、神のシステムを理解しているからであるという事が語られていたのですが成功という事についてもう少し詳しく知りたいのですが。

A:実際にそのように語られて、研究されている本がある。
信仰だけでなく、学問的にシステムとしてとらえているものも存在する。
現在は様々な成功に関する本も出ている。しかし私たちが捕らえるべきは信仰者としての成功である。
それは世の中の成功とは違う。
今日の所から語るならば、ヨナタンの成功をどうとらえるか、そこにどのような賞賛が与えられているかという事なのである。
彼は最後まで尊敬を持って父親に仕え続けた。
そしてその故に戦いの中で命を終えるという結果を迎えた。その姿だけを見るならば、結局王にもなれずに死んでしまったではないかと言う人もいるだろう。しかし実際、彼は神を信じその教えに生き続けた。
それによって信仰者としての姿を現し、その最後の時まで尊敬を持って父親に仕え続け、生涯を終えたと言えるだろう。この様に私たちは神の国で評価されることをするべきなのである。
それはこの世でも評価されることも有れば、評価されずに終わることもある。
私たちが目指すべきはその評価に左右されず、神に評価されることを選ぶことである。しかしその一方で言えるのは、神はこの世が終わり神の国がなる時に私たちを祝福してくださると約束されているが、この祝福がその時だけに留まるものではないという事だ。私たちはすでにこの信仰者としての歩みが神によって評されているのである。
そしてそのことが感じられるようになると私たちの心は穏やかに落ち着いた気持ちでいられるようになる。
 この教会には忍兄と輝兄、穏兄の三兄弟がいる。
 長男忍兄の名前は老牧師が忍耐の中、信仰を持って歩んでいた父親の姿にちなみつけたものである。私は残り二人の名前を付けた。次男輝兄の名は、忍耐の時を過ぎ、評価され光り輝く時が得られると信じてつけた。
しかしその輝きも自らの能力ではなく、信仰によって報われるのであるという思いがあった。そしてその時をすぎ、穏やかな神の愛の中にどっぷりとつかっているような、何の不安もないというような日々がいずれ訪れると信じてつけた名が穏兄だったのである。
私自身もこの年になって本当に神の愛の中に穏やかな日々を過ごすことの素晴らしさを感じている。


Q:マタイの福音書5章12節に「おどる」という事が書かれ、詩篇30編11節にも「おどり」という事が書かれているのですが、「おどる」ということになにが語られているのでしょうか。

A:踊りだすほどに喜ぶ事をそのまま表している。踊るほどに喜ぶ、体を用いて喜んでいることが語られているのである。 マタイに関しては本来喜ぶべき出来事ではない。
しかし神を信じるものとするならそれは踊るほどに喜ぶべき事なのだと促しているのである。
心からこの箇所を信じることで、迫害の世を乗り越えていくことが出来るのである。そしてそれは同時に彼らの信仰の証となるのである、と言うのはこの言葉を信じて命を懸けて迫害の中に臨んだ者の姿や殉教した者の姿を見たものが、このキリスト教徒は命を懸けるだけの真の価値が有るもの、本物なのだという事を信じるきっかけになったのである。
今の時代、実際に私たちは命を懸けることはないが、命に等しいほどに大切なものを投げうつことを求められる時がある。
その時こそが私たちの証の瞬間なのである。そしてその姿はなにより身近な者がみている。
伴侶者がその姿を見ていたり、子どもがその姿を見ていたり。特に子どもは親のその様な姿から神を信じるようになる。
私たちはありふれた日常に信仰者としての姿を現すことが大切なのである。始められた旦那さんとの営みで信仰を持って何かに取り組んでみればいい。そしてそこに神がどのように働かれるか共に見てみると良い。
そこできっと神は喜び踊るほどの恵みを与えてくださるだろう。


Q:質問ではないのですが、私は昨年から仕事を始めて、その前半は仕事と教会を切り替えて別の生き方をしていました。
しかし、後の半年間で仕事の量が多くなって切り替えが出来ずに悩む日々が続きました。
そのことを過ぎた時に、一貫して日常の信仰生活を歩むということが見えてきました。そして仕事の中で生きている自分も教会で生きている自分も分ける必要はないのだと気づかせられました。
その結果は仕事の取り組み方に大きな変化をもたらしました。
たとえば今までは仕事で車を動かす時に後ろが見えないから同僚に助けてもらう必要があったにもかかわらず、仕事を中断させて頼むことの難しさや、上司になかなか仕事がはかどらない、時間が掛かるやつだと思われることが嫌でぶつけるリスクが有っても頼まずに淡々と進めていました。しかしこれは本来の私の生き方ではないと思ったのです。
そして人に頼むにはどのようにすればいいのかと考えました。
そしてまずは自分の仕事が遅くなるかもしれないが、同僚から同じようにお願いされた時に嫌がらず、その頼みを受ける様になりました。そうしてみると以前先生がお話していたことと同様、3回に1回くらい返してもらえるようになりました。そしてこれこそが本来の私の生き方なのだと思えたのです。
上司の顔色を窺い、同僚の願いを蔑ろにするのではなく、仕事が遅いと思われようと、自分の評価を気にせず、身近なものを助けられるものでありたいと思うようになりました。

A:神のシステムとはそういうものだと思います。普通の人は仕事に夢中になってどうやったら成功するかと考え、上司の顔色を窺っては身近な人を蔑ろにしてしまう。
しかしそれは結局大きなリスクを背負ったり、事故を起こしてマイナスになってしまったり、そして顔色を窺っていた人が一年もせずに移動になってしまったり、意外とそういうことが有りうる。私たちには予想もつかないようなことが起こりうる。
あたかもわかっているかのようにしている事がナンセンスなものだということが多い。だからこそ実際は真実に一つ一つ隣人を大切にしながら生きているほうが絶対に良いものが生まれる。同時に私たちは無意識の中にしていることも有るだろう。
幼いころからあなたが教会の中で生き続けたことがあなたの生き方に大きく影響を与えている。
いずれそれは他の人の目に明らかな違いとなって見えてくるのである。
そして同時にあなたの生き方が神のいないものへと変わろうとした時に、違和感として自らに警告を与えてくるのである。
あなたがそれに就職一年目で気付けたのはあなたが神と真実に歩んできたから。
あなたも始めは高校を卒業してすぐに働き始めたいと言っていたのを神に導かれたと信じて、2年学びの時間を増やすという進路に変えた。
それは時に誘惑でもあったし、回り道のように見えたかもしれないがあなたにとって神に近づく良き時間でもあっただろう。私たちはその事を振り返るときに神に感謝を表し、証しをしなければならない。
私たちの力で行ったのではなく、神が導かれたという事を忘れずにいなければならない。
なぜならそれをせずに心の中でばかり感謝を表しているといつの間にか傲慢になり、自分の力で勝ち取ったと高ぶってしまうことに繋がっていくからである。
だからこそ、大いに神に感謝を表し、証し、祈りを捧げ、賛美し、神を拝するものであるべきなのである。あなたの良い証が聞けたことを心から嬉しく思う。


Q:私や私の家庭は神の守りの中で本当に恵みの中にあるのですが、時々、先生のお話の中で刈り取りということが語られると恐れや、不安が湧き上がってくることが有ります。
私は子どもたちがこの教会に残っていくために何が出来るのか、私の行いがこの子たちを変えてしまうのをすごく恐れています。私はこの子たちのために何が出来るのでしょうか。

A:私の信じている神は、私が喜び、恵みの中に生きるために最善を尽くしてくださるお方であると確信している。
決して私に悪いものを刈り取らせて、あざ笑っているような神ではない。
私の信じている主は、私に涙の刈り取りが有るならそのそばで泣いて共に刈り取ってくださる方なのである。
その共に泣く神の姿を私はみながら慰められるのである。
また神は私に、さあまた蒔いていこうと声を掛けてくださる。
だから「はい」と私は再び信じて種を蒔くことが出来る。
もちろん「また悪いものが入るかもしれないですね」と神と語り合う時もある。
しかし、喜びの刈り取りを夢見て、神と共にその時を迎えたいと心から歩みだせるのである。
神は私たちの行いがどのようなものであってもそれに関係なく100%良いものだけを与える方ではない。
私たちが少しでも過ちを犯しているなら、間違いが有るなら確かにそのことは結果として現れる。
なぜこの様なことが起きるのかと思うこともある。
私は事実今大きな問題に直面している。
これは様々な布石をして回避しようとした出来事である。しかしこの問題が起きてしまった。
それでも私の信仰は揺らがず、人によってはこんな問題の中で穏やかでいられるわけがないというかもしれない。
しかし私は穏やかでいることが出来ているのである。それは主が共にいてくださることを私が心から信じ、より頼んでいるからなのである。
私が動揺すれば家族も教会も揺らいでしまう。
しかし、私はその中で気張らずに、真心から安らぎを受け、それによって家族も穏やかにいることが出来る。
だからこそあなたも恐れを持つことも有るかもしれないが、神が共にいる事を信じ、心から穏やかさを求めていくと良い。
子ども達はあなたの心を見ていて、あなたが心から神の存在とその故に穏やかさを得るなら、子ども達も神が共にいてくださることで安心していくことが出来るようになるだろう。
そしてどうしてもその不安に穏やかにいられないなら、あなたの旦那さんに抱きしめてもらって「大丈夫」と言ってもらえばいい。あなたはその故にきっと穏やかになることが出来るから。


Q:先日家内に私の祈りには語彙力が足らないと言われたのですが、頭で考えていないことや準備していないことが祈りの中で出てくることがあります。それは文法が整っていなかったりするときもあるのですが、私自身は祈りの霊的力を感じ、とても心動かされるということが有ったのですが。

A:私は説教を書斎で100%作ってはいかない。七割で挑む。
それはその場で語るときに会衆と共に神を拝するからこそ、神の霊的力が働かれることを感じるからである。
あなたのその経験も同じだろう。神の力を受けて祈るという経験が出来たのは良かっただろう。
そしてもう一つあなたの伴侶者があなたのボキャブラリーについて指摘することを考えるなら、どのような形で足りない点を示しているのかを捉えていくとよい。
あなたを心から愛しているから指摘するのか、つるし上げるために指摘しているのか。
あなたが愛してくれているから指摘してくるのだと考えるならばその愛に応え、その助言を受け入れていくと良い。神はあなたたちが伴侶者としてお互いに交わる事、愛することを願っておられるのである。
神の御心はあなたが彼女という人格と結婚することにあるのではなく、そこから始まる彼女と歩み続ける永い営みに御心がある。 あなたと彼女の活きた交わりを神は望んでおられる。愛することは信じることである。愛することは相手を愛することであると勘違いしている人がいる。
本来は伴侶者が心から自分を愛してくれていると信じることが愛なのである。
先程、愛しているから指摘しているのか、つるし上げるために指摘しているのか捉えるという話をしたが、愛しているから指摘されていると信じることが愛なのである。
そうしていると本当に相手に愛されるようになるし、自らも愛していくことが出来るようになるのである。
足らなさへの指摘は頭に来るときもあるだろう。その時は心の中で彼女は愛してくれているからこそそんな風に言うのだと考え素直に取り組んでみるべきである。神を信じ互いを信じて、愛を育み続けて欲しい。


(仙台聖泉キリスト教会会員)