同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-94

saki-san

山本 咲

(写真は宣教会から)


サムエル記Ⅰ 20章

 今日、取り上げるこの箇所から読み取れるのはダビデとヨナタンの両者に若き信仰があふれているということである。彼らは若いからこそ、自らが変化できるようにサウルも変わることができ、信仰を回復させることができるのではないかと諦めずに求め続けた。その忍耐と期待の力は若さからくるものである。
 私たちは年月をかけた信仰の良さも感じるものであり、若者の信仰の未熟さを知っている。しかし、若い信仰の中には純粋な力強さが見え隠れするのである。なんとかしようと挑み続けているのは若さの故である。これが老いてしまうといろいろな状況を知っているが故に、知恵があり経験した分、諦めやすくなってしまう。だからこそ私たちは若い人の積極性や一途さも大切にしていくべきである。
 教会は未熟な信仰者も経験を積んだ信仰者もいる。だからこそ世代を超え、年齢を超え、関りを持つことで互いに良き信仰を保っていくことができるのである。
 若い人は先を歩む信仰者の知恵や経験を受け継ぎ、反対にこれから老いて、いよいよ考えが固まってしまう信仰者は若い人の活力豊かな信仰から力を得ていくべきなのである。そのようにして互いに関わるとき私たちは相手の心を探りつつ、信仰によって生きる実践が行える。それは隣人との関係を作り上げていくときに必要なスキルであるが、同時に私たちが神の御心を探り、御旨を知り、捉えていく際にも用いられる。だからこそ私たちは互いに壁を作らず関わる必要がある。しかしそれは時に、苦しみが伴う。相手の心を知れば悲しみが起こることもあるだろう。それでも私たちはそこから自らを逃してしまうのではなく、果敢に信仰によって立ち上がり力を得て乗り越えさせていただきたく願う。
 ヨナタンとダビデは友情と信仰をもってサウロ王に対峙していく。しかし彼は変革することができなかった。その故に問題は解決の道をたどることなくサウルの死という破局を迎えていく。
 この時、ヨナタンには二つの生き方が示され選択を迫られた。ヨナタンはサウロの側につき、今のままの状況を続け少しでもサウロ王が生きながらえるように支えていくか、それともダビデ側について父親であるサウルを見限り、袂を分かつという道である。彼は前者を選んだ。その道は彼にとって名誉な最後を迎えるものではなかった。しかし、彼は父親という存在に仕え続けたのである。
彼はきっと自分の最後を知っていたであろう。だからこそ、自らだけに止まらず自らの子孫をも含めた契約をダビデと交わすことを切望したのである。それは後にベニヤミン族とユダ族との関係にもつながるほどのものとなった。彼の信仰は父親をも超えるほどの強さを持っていたのである。
 私たちの中にもこのような信仰は宿っている。そしてその力は自らの価値観を大きく変えるものとなるときがある。なぜなら信仰とは神のシステムを教える御霊の働きに従い、普通ならそんなことはあり得ないと切り捨ててしまうようなことも信じ、受け入れ、実行していくことができる力をもたらすからである。ヨナタンは信仰によって父に仕え続け、その最後を迎えた。私たちも信仰によって人の思う良き道ではなく、神の導かれる道を歩み続けていきたく願う。


  Q:聖書研究会基礎科で詩篇を学んだのですが、その時に疑問に思ったのですが詩篇は時系列で並んでいるのでしょうか。そうでなければサムエル記などと時を合わせて読んでいくことはできますか。

  A:詩篇は時系列では並んでいない。今日取り上げたサムエル記の個所がどこで歌われているかなど照らし合わせていくことは難しい。有名な詩編の23篇もダビデが若い時に歌われたのか、それとも老いてすべてを終えた時に書かれたのかと考えてみると読む人それぞれのとらえ方が出てくるだろう。照らし合わせていくにはよっぽど詩篇を研究していかなければいけないだろうし、それで答えが見つかるかどうかもわからないほどである。だからこそあなたがどこまでそれに興味が有るかであり、それがあなたの信仰にどのように働くかである。
 挑戦してみてもいいだろう。しかしそれは一面徒労に終わるかもしれない。あなたがどう考えるかである。それでも私が言えるのは、あなたがそうやって自ら切り開き、糧にしたものは愛するものへ分け与えるものになるということである。特にあなたはこれから家庭を築いていくが、子どもが出来た時、その子どものために何が出来るか。愛をどのように与えるかというときに役立つものとなるかもしれない。
 それはこの詩篇の内容のみに留まる事ではない。あなたのこの若いうちに得られる経験すべてに言えるだろう。子どもたちの必要な時に、そのチャンスを逃さず、教えることができたら幸いである。特に自らが苦手な分野だと思うところは若いうちに挑戦していくとよいだろう。
 なぜなら生まれてくる子どもは少なからずあなたに似る存在になり、不得意な分野も似る可能性がある。もちろん徒労で終わるかもしれない。しかし、その可能性があると考えるならば、自らの不備といえる分野を克服し、子どもがそのことで悩むときに備えていくことが愛だと思う。そして実際に子どもに手を貸し、教えていくことができたならば、それは親への信頼や尊敬へとつながっていくものとなるのである。


Q:今日、取り上げられた箇所に関してのところで、2節の時点でヨナタンはまだサウロのことを信じていますが、そこから30節で激しく言葉を投げかけられたことから、彼がもうサウロが変革することはないと考えたから最終的な決定に至ったのだとこの箇所を捉えたのですが、それでよろしいでしょうか。

A:ヨナタンはダビデに王位が移っていくことが神の御旨であることが分かっていた。それはひょっとしたらなるかもしれないという曖昧なものではなく、確信を得てのものだった。だからこそ彼はサウロを支え、変革されることで、サウルの延命と共にダビデへの良好な引継ぎが出来ることを望み期待していた。そしてそれこそが神が自らに与えた使命であるとすら思っていたと考える。
 しかしだからと言ってこの出来事をただ先延ばしにしていくことはできない。なぜなら、ダビデの命が危ないからである。このことは神が命を守ってくださるから手を打たなくてもいいという事ではなかった。そのような神頼みのような姿勢ではなく、命が危ないとわかっているなら、手を打っていくという努力をしていかなければいけなかったのである。
 だからこそヨナタンはこのことをきっかけに、ダビデを逃がすことを決めた。そして同時に自らが今後どのように働いていくかを決めなければならなかった。彼はダビデという存在がいなくなればどんどんと父親が滅亡へと向かっていくことを知っていた。しかしダビデを引き留めることはできなくなった。そこで、彼はダビデを逃すとともに自らはサウル王に従いつつ、その自らの信仰を持ってできる限り父の延命を願い、働き続けたのである。
 ヨナタンのこの生き方を見ると私は彼の信仰のすばらしさと、彼が残した生きざまにその死を惜しむ気持ちが出てくる。しかしそれは同時に彼がとられたのは、神がヨナタンをご所望になったのだろうという思いを持つ。ヨナタンは神のご所望に応え、それによって神のそばに迎えられたのだろう。


Q:サムエル記Ⅰ20章23節でダビデとヨナタンは神を証人として契約をしていますが、今の時代でもこのようなことはあるのでしょうか。

A:あなたも今後迎える。相手となる人と私の前に2人で並んで神を証人として約束を交わすことが有るでしょう。それはいかに素晴らしいことでしょう。
 相手に対して自らの真実と節操を貫き通すことを神の前に誓う。もちろんそれは相手がどんな状況であったとしても。それを実行しないならばそれは神の前に罪を犯す事になのである。またそのような相手への愛があるならばそれは時に、相手が何かを自らのためにしてくれたのなら、自らも何かを相手のためにしなければと思うのである。
 時には照れ臭かったり、出来ないことにイライラしたりすることもある。しかし、その様な思いを持つようになるほどでなければ本当に愛していることにはならない。もちろん相手がやってくれないから自分もやらないというのではあまりにも寂しい関係である。それを繰り返しているうちに互いに相手の願いに応えるようになり、応えられないことに苦しさを覚えるようになる。逆に言うならばそのような何とも言えない不快感がないといということが当たり前になって、そのような感情を持たなくなってしまうことを恐れければならない。
 またほかにも相手を愛するがゆえにイライラすることや苦しく思うときが出てくる。それは相手に何かあった時、病や、悲しみを抱えている時である。娘が楽しくスキーをしようと思っていたのに彼女がその中で大きな怪我をしてしまった時、なぜ自分はこのコースを選んでしまったのか、なぜ彼女の楽しみを叶えることができず、つらさを与えてしまったかと後悔する。それは愛しているからである。彼女を大切に思うがゆえに苦しく思うのである。
 私の娘たちはあなたがスキーでゴーグルを忘れてしまったことが有ってから予備のゴーグルを袋の中に入れている。それはあなたがスキーを楽しむうえで忘れてはならないゴーグルを忘れたことで、あなたが十分に楽しめないのではないかと気になって心を痛めた経験があるからである。
 だからこそ、あなたやほかの人がもし忘れてしまっても貸せるようにと予備のゴーグルや手袋を用意しているのだ。これが愛である。愛はこのような思いを人に抱かせるのである。そして同時に愛することを神の前に誓ったならば、私たちはそのことを思い起こすたびに、自らが心から相手を愛することができているかと吟味することができる。足りないと思うならば、神の前に誓ったのにと自分をもう一度戒め、自らが誓ったことすら守れないという足りなさ、悲しさに、心を痛め、改めていこうと努力するきっかけにもなるのである。もちろんこれは自分自身に対してのことである。この誓いを取り上げて、相手に「神の前で私を愛するって誓ったでしょう」と責める材料にしてはいけない。自らが神の前に真実に生きているかどうか、相手を心から愛しているかと自分に問いかけるものなのである。


Q:日曜日にHis Ownのコンサートで心を動かされるという経験をしました。その朝のメッセージの中で霊的な躍動ということが語られていた時には私にもそのような経験はあるのかと思っていたのですが、これこそが霊的躍動なのかと思うようになりました。このようなとらえ方でよろしいのでしょうか。またその時の説教の中でリスクを回避していくことだけでなく、リスクを承知して攻めていく信仰も必要であるということが語られていたのですが、詳しくもう一度教えていただけないでしょうか。

A:躍動や感動がどのように導かれて行くかが大事なのである。感動するだけでなく、神の御心がどのように導かれていくか、それに対して自らは何をしていくべきか。例えばHis Ownの福音の働きをどのように支えていけるか。経験したことから自らをどのように動かしていくかということを考えて、実行していくことが大切なのである。
 ネヘミヤは御霊によって躍動が与えられたことで、彼はそこから力を得て、神の働きに携わっていった。時にはじり貧になるようなこともあっただろうが、その中でも神の恵みを信じながら歩みだしていった。私たちもそのようにできるかということである。私たちは理屈として神が献げたものに豊かに報いてくださることを知っている。
 しかしそれが理屈だけでなく、神が実際に見せてくださるものを勝ち取っていくことができるかどうかが大切になってくる。それは霊的躍動によって私たちが信じて働きをなしていくこと、動き出していくことで初めて神からの応答、神からの恵みという形で与えられていくのである。それは2つ目の質問につながってくる。
 私達がリスク管理を若いころに注意され続けたのは若さのゆえに間違ってしまうことが有るからである。教会から外れないようにという考えのもと、私たちは教会や神から私たちを離してしまう事柄に注意を置いた。  それは一面日本という国にクリスチャンが少なく、教会から離れてしまうことが同時に神の道から外れてしまうことが多かったからである。しかしその時期を超えたなら、教会以外に私がいる場所はないと思う人々にこのようなリスク管理は必要ない。むしろすぐにリスクばかりを考え、信仰者の歩みが止まっているようではいけないのである。先日教会内でインフルエンザがはやったが、インフルエンザの診断が下りないうちはその心配が有ろうとも教会にくることは構わないのである。もちろん最低限の対策は必要である。しかしリスクを心配するあまりに、教会に行かないようにしようとか、迷惑をかけるからと簡単にそこから自らを離していてはいけないのである。教会への迷惑というリスクを考えるあまり、礼拝という守るべき最も大切なことから自分を離してしまうことにつながるのである。だからこそ私たちは一面リスクを恐れず、攻め取るほどの心をもって信仰に歩んでいくことが必要なのである。


Q:マタイの11章11節に書かれているバプテスマのヨハネより天の御国の最も小さいものが勝っているとはどういうことでしょうか。

A:この箇所はイエス・キリストによってなされた贖いのすばらしさを語っているのである。バプテスマのヨハネは確かに素晴らしい信仰を持っていた。それまでの信仰者の中で一番とまで言われている。しかしそれはイエスキリストが来られる以前の話である。旧約の信仰と呼んでもいいだろう。救い主が来られる前、予言からメシアを待望しつつ、神の救いを信じて、神の教えに生き、働く人々が偉大な信仰者と呼ばれていた。
 しかし救い主が来られたことでその後の信仰者には完全な贖いとキリストとの人格的な交わりが与えられた。そしてその二つを比べた時に、後者が優れているのは当然なのである。それは人格の質や働きが優れているというのではない。キリストご自身が来られ、聖霊が豊かに注がれ、キリストの十字架によって私たちの罪が贖われたとき、私たちは完全に神のものとなった。だからこそ、その存在の中で一番小さいものですら、キリストが来られる以前のどんな偉大なものにも勝る恩寵が導かれているのである。
 だからこそ、私たちはそのキリストの贖いを生活の中にマッチさせ、生きていくかが大切なのである。ただ日曜日に教会に来ているときや、ふと思い出したときというのではなく、私たちの生涯の全てにイエス・キリストが贖いをなされたことや、友としてそばにおられること、常に臨在しておられて私たちの中に生きて働いているということを心にとめ、その事実を心から喜ばなければならない。
 なぜならそれはイエス・キリストの来られる以前のどんな偉大な信仰者でも到達することができないほどのすばらしい関係だからである。あなたは自らを弱いという時があるが、主の臨在があることを否定する必要はない。私たちが弱くあろうとも、神がおられ、あなたの業や祈りにこたえておられること、そこに働かれる力があることを感じるならば、あなたは強い主の語り掛けと信じて、その事実を握りしめ、大切に手放さないようにしなければならない。そのようにすると、主の臨在と豊かな導き、福音の中に自らを置いておくことができるのである。だからあなたも時には力強く信仰をもって、踏み出していくことが大切なのです。それこそが新約に生きる私たちの信仰です。


Q:ヨナタンの献身は神のご所望に答え、サウルのそばにいる事だったと先ほど先生は語りましたが、ヨナタンはそれが献身であり、神のご所望であると理解してそこにいたのですか。

A:それはわからない。しかし私はそう信じる。信仰のすばらしさやその醍醐味はその事を一緒に生きた人や同じ立場にいる人しかわからない。しかし夫婦でも信仰が遊離してしまうと、旦那さんがいかに涙ながらに信仰を告白しお証していても、奥さんがうつらうつらとしていることがあり得るのである。私たちはそれを恐れていかなければならない。だからこそ互いが互いの信仰に生きるために流した涙や、その憂い、喜びを共に分かち合っていかなければならない。そしてそのようにして共に生きるからこそ、その相手の賞賛が私たちの心に響くのである。あの人のスイングはすばらしいねと野球を知らない人が言っても結局はその姿がかっこいいと言っているだけなのである。しかし野球を知り、その選手の取り組みを知っている人ならば、打率三割を打つことの難しさや、そのための隠れた努力、それでも相手のほうが勝っている現実の中で挑戦し続ける選手の本当のすばらしさを理解できるのである。そしてその理解者の賞賛こそが選手にとっても何よりの喜びとなるのである。信仰者もその辛さや、大変さを理解して見ている人こそ、そのすばらしさを理解でき、心から賞賛できる。
 ヨナタンのご所望はヨナタンのご所望を理解できる人しかわからない。理解できない人は、結局聖書から何も得るものがなく終わってしまう。私もこうなりたいなーという希望ばかりで、一向に自ら努力して歩もうとしない。そんな信仰は、得られるものなどなく最後にはなぜ思い通りにしてくれないのかと神に文句を言うまでになってしまう。だからこそ私たちはそうならないように注意していかなければならない。そして注意すると同時に前を歩む信仰者の姿に倣い、その信仰を理解しようと取り組み、果敢に挑戦していかなければならないのである。時には私たちには神の戦いの中で、その人の屍を乗り越えていかなければならないという時を迎えるかもしれない。その人を助けるのでも、恐れて立ち止まるのでもなく、その人を踏み越えてでも、前に進んで勝利するのである。私たちはその時、これこそがその倒れたものの本望なのだと理解し、彼らが決意したであうことを心から理解し、その人の働きを心から賞賛し尊敬するのである。あなたにも私の屍を乗り越えていくことが求められることがおこるかもしれない。笑いごとで済まされない、それが解るときがあなたにも来るだろう。

(仙台聖泉キリスト教会会員)