同労者

キリスト教—信徒の志す—

Q&Aルーム

質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-94

saki-san

山本 咲

(写真は讃美感謝会から)


サムエル記Ⅰ 21章

  前回はヨナタンという人物にスポットを当て、彼の姿から、人生の歩みと決定についての話をさせていただいた。彼はたとえ不名誉な死を迎えようとも真実を貫き通した人物である。
 彼は神がダビデを選ばれたことを知っていた。しかしそこに妬みを持つのではなく、心からダビデを愛し、友情を育み続けたのである。そんな彼らのように私たちはお互いに切磋琢磨する信仰者を見出すことが大切である。そのなかでは相手を認め合い、尊敬し、敬意を払えるかということが大切になってくる。相手を妬むのではなく、尊敬することでその相手からの助言や言葉を受け入れることができ、自らに目覚ましい変革を起こすことができるのである。
サムエル記はヨナタンの記事からダビデへとスポットが移っていく。ヨナタンはこの後苦悩を抱えつつ、その最後を迎えていくが同時にダビデも苦難の道へと自らを進ませていくことになる。
 21章に記されているように彼は真実に自らのまま生きていくのではなく、偽装をしていかなければ命を守ることができなかった。神に選ばれたという事実と自らを偽らなければ生きていけない現実とは若い彼にとっていかに困難で、悲しい出来事だっただろうか。
 人間は悲劇的なことが起こると神はなぜこのようなことを許されるのかと思ってしまうことがあるだろう。それを通り越すと神はいないとまでいう人もいるだろう。信仰者も神はいると信じながらもだからこそ、信じているのになぜこのようなことが起こるのかといぶかる。
しかし実際はこのような考え方では結局ご利益宗教に成り下がってしまう。本来はこの出来事にも神の御意志が働かれているととらえるべきなのである。サムエル記には確かにここに神のそれが働かれていることを表すように7節にドエグという人物が主の前に引き留められていたことが書かれている。これによってダビデの存在や祭司のやり取りがサウルに告げられ、その後祭司アヒメレクの家が滅ぼされるという出来事を迎えることになる。
 これはダビデの偽装が引き起こしたことである。偽りということは決して良いものではない。ましてや積極的に自らの利益を得るためにするものではない。それは悪しきことだからである。しかし、悪しきこと、自らのしたくないことではあったがダビデは偽らなければならなかった。そうでなければ「生かさなければいけない自らの命」を守ることができなかったのである。
 ここにヨナタンとダビデの記事が並行して書かれている意味がある。ヨナタンはダビデとサウルの間に立つという使命を果たすために命を差し出しても真実に父親に仕え続けた。
対してダビデは真実に生きたくても自らの命を絶やしてはならないという使命の元、自らを偽らなければならなかったのである。自らの偽りによって引き起こった被害の大きさや、偽りによって自らを守っているという事実にダビデは荒んでしまいそうになる自らの心を慰めながら、その苦難を乗り越えていったのである。こうして彼は神に用いられる器としての自らを確立していった。
 しかしここで注意したいことは、苦悩そのものが彼を神に用いられる器にしたのではないということである。
苦しいことがあったからといって神に用いられる器になれたのではない。その苦悩を乗り越えようともがき、葛藤し、神に寄り縋り、歩んでいく私たちと神との歩みが、その関係が私たちを神に用いられる器にするのである。彼にとって偽装とは神の御手の中で起こったものである。確かに神の御意志であろうとも実践することやそれによって出た被害を思えば苦しい出来事だったであろうことは想像に容易い。しかしそれが神の御手の中で起こったことだからこそ、ダビデは苦悩に生きながらも同時に守りの御手と御扱いがあることを確信できたのだ。
 この経験、神の御扱いを受けたという確信が私たちを神に用いられる器とするのである。私はこのような信仰の営みをしていくこと、また、一人一人が築き上げた信仰やそこにある神の御扱いを語っていくことが大切であると考える。なぜならそれを聞いた者たちがその告白によって神との交わりとはどのようなものか、現実にどのようにして現れてくださるのかということを自らの中に蓄えていくことができるからである。そしてそれはこれから歩む人生の中で現実に翻弄されようとも、神の御扱いを見出し、確信し、示されている道を選び取っていくことができる力となっていくのである。


Q :ヨハネの福音書5章23節で「子を敬う」とは自らの子どものことですか

A :これはイエス・キリストのことである。ヨハネという人物はイエス・キリストが神の子であることを強調しこの福音書を書いた。しかし同時に彼が強調しているのは神の子でありながら、人の形をとられたということである。完全な人の形をとられているからこそ、神の子であるという事実、証拠といえるものが必要だと彼はイエス・キリストご自身の言葉を用いてどのような人物であったのかを語っているのである。
バプテスマのヨハネですらイエス・キリストご自身にあなたが救い主ですかと確認していることが書かれているが、同じように疑問を持ってこの書物を読む人がイエス・キリストは神の子で、人の形をとって世に来られたのであるということを受け入れ、知ることができるようにと書かれたのだ。だからこそこの書ではイエス・キリストが救い主であることを表そうとし、そのことを信じた人々に現された救いやその結果を強調しているのである。
これは逆に読む人の心が何のしがらみもない、変な考えもない自由な状態であれば素直に心に受け入れられるようなほどに描き出されている。しかしそれが受け入れられないのは受け入れたくないという明確な意思があるからである。それが彼らの神に対しての姿勢であるともいえる。だからこそ自らを信じるもの、受け入れるものは神を受け入れたことと同義であり、逆に受け入れないならば神をも受け入れていないと語っているのである。
イエス・キリストの姿としてここでもう一つ強調されていることはどこまでも父なる神がイエス・キリストを遣わされたという事実である。三位一体を理解することはとても難しい真理であるため詳しくは語らないが、イエス・キリストはあくまで自らを神から遣わされたものとし、それでいながら別の存在ではなく、一体であると語っておられる。神のご意志を行うことを大切にし、それこそが自らがここに存在し、働く理由であるとされたのである。そこには従順であることが強調されている。真理を選び取り、自らが明らかにしているということは一切言われていない。あくまで従うものとして神のご意志を行っているとしている。
私たちがイエス・キリストのお姿を理解しようとするならば、そこにあるのは限りない従順である。私たちがキリスト教の中に自分を生かそうとするときに一番求められていくのは従順である。
そこに生きるとき神のみ旨は私たちの従順を通して表される。私たちが真理や神の御心と表して語ることは決して本来の神の御心ではない。本当に必要なことは神の御心という言葉ではなく、神の前にその教えのなかに従って歩むことなのである。


Q:苦悩がダビデを用いられる器にしたのではなく、その中で神のお扱いを受けることが彼を用いられる器にしたのだと語られましたが、彼自身にとってこの偽りという行動は、心苦しく思いながらも、この行動でいいのですかと神に尋ねながら慎重に進めていった事柄だったのでしょうか 

A :決してそのような高尚なものではない。彼にとって行き当たりばったりの中で生き抜くために必要なことをしているにすぎないのである。しかし彼に求められているのは死の危険を遠ざけ、生き抜くことである。彼の中には神が自らをイスラエルの王として選んだという確信があっただろう。しかしそれでいて現実は気違いを装わなければならないようなものであった。ここには大きなギャップがある。それでもダビデは神を信じ従っていたからこそ、気違いを装うという本来ならば嫌悪や苦悩する出来事を超えようと、取り組んでいくことができた。
私たちは下手をすると目の前に神からしなければならないものとして苦悩するような出来事を置かれることがある。それは確かに自らの成長には必要で、これを乗り越えれば確かな実力が自らにつくとわかっている。しかしそれがわかっていても手が付けにくく、やりたくないことであるという事実は変わらない。神にさあこれを行いなさいと示されても、手を付けずにそこのことを過ぎてしまい、結局従っていくことができないのである。しかしこのような取り組みや、神のお扱いを受けなければ変革や成長は与えられない。それを嫌だからと遠くにやってしまったり、ごまかしたり、開き直って私には無理ですと投げ出したりするようでは結局その力がいざ必要になった時にその足りなさを覚えてしまうのである。そしてその現実の苦しみを他者のせいにしたりすることによって何とかその苦しみから逃れようとするのである。しかしそれでは結局力が足りないという現実も、その問題を先送りにして逃れた自分も変革できず、いつまでも堂々巡りでそこから抜け出せなくなってしまうのである。
 ダビデの話に戻るが、彼はここで翻弄されつつも生き抜いていくことが必要なのである。アキシュのところに行ったとき彼には自らを受け入れてもらえるだろうという目論見があった。しかし、現実はそうではなく、気違いを装って逃げなければならなかった。この一つのことを取り上げても現実と思惑にはギャップがあることに気付いたという大きな成果を得たといえるだろう。彼はこのような中で確実に神の器として用いられるように神のお扱いを受けているのである。


Q:創世記32章28節のところでヤコブと呼ばれないといいながら、イスラエルではなくヤコブと呼ばれていることやそれでいて急にイスラエルという名前で呼ばれている部分もあるのですがその違いは何ですか

A:名前に込められた意味を表わすためにヤコブと呼ばれるときとイスラエルと呼ばれているときがある。ヤコブはあくまで押しのけるものであった。「押しのける」とは自我の現れである。彼は自分、自分とここまで来ていた。しかし、彼は神に主権を明け渡し、神が共にいてくださることを選ぶことができた。
 主権を明け渡すということは私たちが神と一体になるということである。主権を明け渡せないうちは自我をもって神と対峙しているということなのである。そして最悪自らの欲望を間において神の意志と対峙しなければならなくなるのである。
 しかし少し考えればわかるように神と対峙したならば自らがそこに勝つということはあり得ないのである。私たちが神に主権を明け渡し、神のご意志と一体となることが勝利の秘訣である。
 しかしどうしてもそのことが手放せず、こうしたい、ああしたいという思いから神に自らの主権を明け渡すことができず、結局は自らというものを持ち続けようとしてしまう。しかしそこから解放され自らを明け渡したときにこそ今までならばかなわなかった願いや、出来事が神の手によって導かれるようになる。そしてその時にこそ私たちは心からその出来事を自らが神に従った功績、祝福として受けることができるのである。ヤコブは押しのけるものから神に主権を受け渡すことでイスラエルとなっていくことができた。その結果として彼が受けたものは全家を連れてエジプトへいくことができたということである。エジプトはアブラハムやイサクの時代には行ってはならないと神に言われていた場所である。また全家とは一族の一人をもそこから漏れるものがいなかったということなのである。
 ヤコブは確かにイスラエルと呼ばれるといわれながらもまだまだヤコブのままだった。アブラハムは新しく名前を与えられたあとにアブラムと呼ばれていることはない。しかしヤコブはそのままだったのだ。それでも彼は変革することによってイスラエルになり、愛するものたちに囲まれその最後を迎えることができたのである。


Q:福音書の中で躓く(つまずく)という言葉がよく出てくるのですが、聖書の躓くというイメージはどのようなものなのでしょうか。

A:心地よく、正常なものではなく、転ばせたり、ケガさせたり、足を止めさせたり、最悪は死に至らしめるような出来事のことを語っている。それは同時に躓かせるために足を出したり、何かものを置いたり、行う側に意思があることを示している。私たちは積極的な愛の行為として相手を躓かせないということを大切にしている。躓かせないためにはどのように相手との関係を作り、関わっていくべきか。特に注意していきたいのは私たちの行いが「真実」であるか、「不真実」であるかということである。
 例えば神を信じて生きなさいと語っていながらその実、その人がまずそのことを守っていない姿、または信仰によって私は幸福ですと言いながら、家では悪口やその苦労を前面に出して文句を言っている姿など。それは見ているものに不真実さからくる不信感を与える。ましてやそのことを身近で見ている者たちは特にその人の信仰がいかに表だけを繕ったものであるかがわかってしまう。そして信仰と言っていながらやっていることは世の中と何も変わりないという事実に失望とともに「あんな人の信じているものなど」と宗教自体の評価につながってしまうのである。
これが信仰者の行動が与える躓きである。信仰者の姿は良くも悪くもその宗教に対する周りのイメージを塗り替えるものである。だからこそ、私たちの姿が信仰者としてまっすぐに神の前に歩いていれば、その素晴らしさを伝えるものになる。しかし、逆に信仰者と言いながら、世の中の動きに支配され、結局口先だけの者はその人の信じているものの評価も下げているのである。私たちの大切な家族や隣人が信仰者になることを望むならば、私たちはとにかく不真実に注意し、真実を全うしたいものである。


Q:ヨハネの福音書の5章27節に神の子ではなく人の子とわざわざ書かれているのはなぜですか。

A :ここでは私たちと同じ人間であること、人の子であるということを強調しているからである。神が人間を一方的に裁くことはできる。人間は神のように完璧ではない。どんなことにも欠けているのは当然である。だからと言ってそこを指摘してさばいてしまってはあまりにも私たちにとって一方的な、救いのないものになってしまう。
 だからこそ神は人間でありながら、神の前に罪を持たずに歩むイエス・キリストという存在を与え、彼を信じ、その十字架による救いを信じるものは、罪が赦されるといわれているのである。それは当時も現在においても変わりがない。当時は実際にイエス・キリストを見て、その話を聞いて信じた人が救われた。そして現在は聖書やその御言葉を語る牧師によって私たちの前にイエス・キリストが救い主であることが表されているのである。
 しかし当時もそして現在も、信じない人々は存在する。神の言葉を語るものに対して、「いやそれは神の言葉じゃなくあなたの言葉だから…」とその忠告を素直に受け入れられない人々である。神は旧約聖書の時代のように私たちに直接語られることはなくなった。そして今も続く新約の時代ではイエス・キリストをはじめ、人を通して語られるようになったのである。だからこそ私たちはその言葉を聞き逃さないようにしなければならない。しかし神は時に聖書を通して語られるイエス・キリストの言葉や牧師の言葉だけではなくほかの人の口を通しても語られることもある。先ほどの話ではないが、一見人を躓かせるような信仰者の口を通して語られる時もある。
では私たちはどのように生きるべきなのか。何よりまず大切なのは相手にかかわらず素直に人の言葉に耳を貸すことである。しかし何でもかんでも聞けばいいのかというとそうではない。次に上がる問題はそのような言葉をどのように精査し、神の言葉として受け入れ、実行していくかである。そこに必要なのが霊的な営みである。
  私たちが霊的な営みをしているかどうかで私たちは自らに語られることを捉えていくことができる。しかしこの営みが欠如するとサウル王が象徴しているように相手の言葉を受け入れられなくなってしまうことや、自らの思いに沿った言葉のみを受け入れて神の本当の言葉を聞けずに滅びへと向かってしまうことがある。だからこそ、日々信仰者としてどのように歩むべきかを吟味し、信仰者同士で語り合い、導かれた教会や家庭で霊的営みを持っていくことが大切である。


Q:今日のところで先ほどダビデは考えていたことと現実のギャップを抱えていたといっていたのですが、私も同じような経験の中で悩み、早く脱却したいと思う時があります。経験とともにこのような心の落ち着きのなさもいずれ少なくなっていくのでしょうか。

A:そのような状況は長く続くものではない。あなたも変革している事実がある。あなたは結婚が神に導かれたものと信じているが、その理想と現実にギャップがあることは事実である。なんでこの人と結婚したのだろうと思う時もあるだろう。しかしそれは神に導かれ結婚した人も、恋愛で結婚した人でもあり得ることである。
 結婚してから見えてくる相手の問題点など山ほどあるだろう。しかしそれを相手との対峙する中でどのようにクリアーし、互いに変革が与えられるかが本当に必要なことなのである。それによってこそ本当に相手を愛し夫婦として一心同体の存在へと変革していくことができるのである。
 神の御心は「相手と結婚すること」ではなく、「結婚してともに生活を送る全て」ということなのである。
人生をその人格と対峙して生きるということが御心なのである。だからこそ添い遂げなければならない。あなたは先日の証の中で自分が家庭を大切にしようと思ったときに仕事に対する意識が変わり、今までは苦痛でしかなかった仕事が家族のためにする行為となり、やりがいが見えてくるようになったと語っていたがそれが神によってあなたに与えられた祝福なのである。悩みも多く苦痛なところであることは変わりないだろう。しかしそれによってあなたに与えられているものが多いことも今日の聖言のダビデの姿と同じと考えられるだろう。
 私は副業で溶接などの仕事をしているが、先日私にしかできない仕事が来た。それは以前まで親方と呼ばれる人物がやっていた仕事である。しかしその人が仕事を辞めて、今では私がそのことの担当になった。その仕事を終えた時、私は同僚から称賛の声を受け、私も傲慢にならない程度でそれを喜ぶことができた。しかしここに来るまでに私はその親方に仕え、その技術を教わる必要があった。決して簡単なことではなかったし、職人気質な相手の前にどのように交わりを持っていくかが大切だった。しかし私はその相手と関係を持っていく能力も、自らを従わせていく謙遜さも今までの人生の中で得ていた。だからこそ、彼からその技術を教わることができたのである。そしてそれによって私は賞賛を得ているのである。クリスチャンが成功するのはこのようなことが与えられるからである。神のシステムを知るからこそ自らを戒めることも、苦難の中から逃げずに自分をその中に置くことも、そして信じて行っていくことができるのである。神の働きに足りる器となることは世の中においても成功していくべき必要なことを網羅している。だからこそ私たちが神のために生きることを考え、従順に歩むとき世の中でも用いられる存在となり、世の人がそこに疑問を持ち躊躇する事がらに自らの積極的信仰を表すことができるのである。


Q :今日の21章7節のドエグが主の前に引き止められていたと書かれているのはそこに主の御意志があったということを表すためだったということでよろしいのでしょうか

A:その通りである。事実この後に先ほど語ったがサウルに告げられたことで22章の悲しい出来事が起こる。神がこのようなことをなさるのかと思うかもしれないが、ヨブ記では実際にヨブの子どもたちは災いでとられてしまう。
これもヨブ記を見るときに疑問を持つ人も多いだろう。しかしその解説に必ず語られているのはもう一度子どもたちが与えられた際に彼にはほかの物はすべて2倍与えられたのにもかかわらず子どもたちは同じ人数であった。それは天の御国にも失われた子どもたちが受け入れられているということのあらわれである。
ドエグの問題も神が許されたととらえてよいと思う。サムエル記の筆者は同時にこのところでサウルという神に選ばれた信仰者であってもそこから離れ罪を犯すようになった時に祭司でさえも滅ぼすという手段に出ていることに焦点を当てている。
私たちもいつ何時落ちていくかわからない。注意をしていかなければサウルのように落ちるところまでどんどんと落ちて行ってしまうことを恐れなければならない。私たちは極めて危険な中にぱっと置かれることがある。
しかしその瞬間に私たちは神を信じてその御手の中に自らを置けるか、それとも神を信じられずに逃げてしまうかが問われるのである。
また神に対してだけでなく、身近な人に対してもそれだけのことができるかということも私たちは考えていかなければならない。特にあなたのような会社において責任をおう立場にいる人はそのことを良く考えるべきである。相手を信じて自らの身を預けられるか、その責任を負う気になれるかということである。信じきれずに、いざとなると私は関係ないとその責任から逃れるようでは相手との信頼関係も築き上げられないのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)