同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(2) —

「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」(ヨハネ 14:16-17) 「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ 14:26)

 
 聖化とそれに続く聖潔の生涯は、今の世に生きている私たちに与えられている最高の恵です。未だその恵を頂いていない皆さんには、そういう素晴らしいものがあるなら私もそれが欲しいと思っていただき是非その恵に与っていただきたい、また既にそれをいただいている方々には、その内容の理解の助けになることを期待して、今月もこのことを解説させていただこうと思います。

「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ 12:1)
これが「献身」です。
小原鈴子作詞の讃美歌に

こころのそこより 君にささぐる
いやじろ(礼物)にとて 神の賜いし
自由のわが意志 今こそ献げん
受けたまえ主よ 恵の御手に
ものにはあらで このまま我を
君がみ旨に  またくぞ献げん

とあります。これをアーメンと讃美いたしましょう。
服従が献身です。
先に説明した通り、献身を果たしたなら、
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)
と信じましょう。

 「まず、杯の内側をきよめなさい。そうすれば、外側もきよくなります。」(マタイ 23:26)
 内側はこころで、外側は行いです。

ローマ人への手紙12章に、先に掲げたみことばの後に、このようにしていきなさいという勧めが記されています。もし聖化の恵に与ることなく、この勧めを真摯に実行しようとしたら、この勧めが律法となって迫り、辛い信仰生活をすることになるでしょう。ですからパウロは、これらの勧めをする前に、いのちの御霊による解放(8:2)と、真の献身(12:1)を語ったのです。

神に自分を明け渡し、イエスの血が潔めて下さることを信じるならこの恵に与ることができることは真実です。

 今回は、聖化の恵に与った後で理解できることですが、以下の項目について解説いたします。

1.聖霊に満たされた時、人と聖霊の関係はどのようなものとなるのか。
2.聖霊が与えて下さる品性は動的なものであること
3.行為の主体は自分であること
4.証の勧め
5.いつ聖化を求めるべきか、未だそれをいただいていない兄姉にいつそれを受けるように勧めるべきか。


1.聖霊に満たされた時、人と聖霊の関係はどのようなものとなるのか。

<聖霊の宮(神殿)>
 第一に人が聖霊の住み家になります。
「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」 (コリントⅠ 6:19)

 聖霊は人と、人のこころと体を共有されて、人は自分と聖霊とが、区別がつかないほどに一体になります。

しかし一つの人格になってしまうことはありません。
私は私であり、聖霊は助け主として一緒におられます。

 人は聖霊に満たされた状態で、全く正常な普通の人です。
なにかに憑かれたものをイメージしたら完全に誤っています。

 聖霊によって私たちは「神のご性質にあずかる者となる」(ペテロⅡ 1:4)のです。
聖霊は「聖」であられますから、聖霊と一体になったとき、そのひとも「聖」であり、
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(ペテロⅠ 1:16)
というみことばが実現します。
ですからこの恵は「聖化」と呼ばれることがふさわしいのです。

 イエスが自分と自分を信じる人々との関係について述べた以下のような事柄は、聖霊に満たされたとき、人の内側から聖霊がそれを供給してくださるのです。

<神との交わり><祈り>
 神との交わりは、中保者であるイエスによってできることですが、それは聖霊によって実現します。
最も身近にある神との交わりは祈りを通してなされます。聖霊が祈りの霊となってくださることもご存じの通りです。
聖霊が供給してくださるすべてのものは、祈りと深く結びついていています。ことに力や知恵はそうです。


<いのちの供給> 人に住んでくださった聖霊はそのひとのいのちと各種の善いもの、信仰、品性、知恵、力などの供給者になってくださいます。
「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」(ヨハネ 7-37-39)
今は既に聖霊が注がれましたから、いつでも聖霊がいのちの水の川となってくだいます。
イエスは、「わたしは、よみがえりです。いのちです。」(ヨハネ 11:25)といわれましたが、聖霊によってそのいのちがわたくしたちの内から供給されます。

パウロの勧め、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」(ローマ 12:11-12)
を営々とやり続けるためには、この「いのち」が必要です。

<平安><喜び><自由><光><知恵>みことばの引用を省略しますが、これらはどのような状況に遭遇していてもこころの奥底に静かに存在し続けます。


2.聖霊の与えて下さる品性は動的なものであること

 コリント人への手紙第一13章やガラテヤ人への手紙5章22節などに記されている愛の姿、それが全部いっぺんに人のものとなるのではありません。
聖霊は私たちの品性の源となってくださいますが、それは摂理に導かれて、その品性を必要とした時に供給されるのです。聖霊による品性は静的(スタティック)なものではなく動的(ダイナミック)なものなのです。
ですから「御霊によって歩みなさい。」(ガラテヤ 5:16)ということは極めて大切です。その現場に聖霊に一緒にいっていただき(キリストと一緒にいっていただくことと同一です)、そこで必要とする品性を与えていただくのです。

 聖潔に生きているひとは、忍耐を必要とする場面、寛容を必要とする場面、節制を必要とする場面、・・、にその必要とする忍耐、寛容、節制、・・、をもって生きることができます。

 聖霊が与えてくださる品性が動的なものであると、聖書のどこに書いてあるのかと疑問に思う方もおられるでしょう。
それが動的である理由は、神が人間にお与えになる恵みは「信仰」によるからです。
なんと表現したらいいでしょうか。
いま問題となっている事柄を、神が与えてくださると信じていないなら、それは与えられないのです。
信仰は、「信じます」という人間の意志的行為です。なにも考えたり実行しようとしたりしていない、自然な状態でも信仰は働いています。
人間の行為は「今」という時間にしか存在しません。
ですから信仰は人がそう自覚してもしなくても、「今」という時間の中に存在します。
神の恵みは信仰と結びついていることが、神の恵みが動的である理由です。

 聖霊による品性の供給は、必要となったその時に与えられるものであることをこころに止めておいて頂きたいと思います。必要な時に必要とする品性が与えられるのですから神の備えは十全です。

 同時に聖霊の供給される品性が動的であるということは、ひとがその品性に相応しく行動しないなら、その品性が失われてしまうことをも意味します。その結果、豊かな信仰の持ち主、豊かな愛の持ち主であったひとが、それを適切に働かせないためにそれを持たないひとに変わっていってしまうこともある、ということです。


3.行為の主体は自分であること

 聖霊に導かれて・・といいますが、実際の生活では、すべてのことを自分で決めることになります。
聖霊が「こうしなさい・」と直接指令して下さることは、極極まれなことです。
どこにいくか、何をするか、すべて人の自由であって、聖霊はそれを妨げたりはしません。行うのは自分です。責任も自分にあります。

 このことは聖霊と人との関係の重要な点です。
聖霊は「助け主」であって、いのちと品性の供給者であり、希には直接ことばをもってささやいてくださることもありますが、決して行為の実行者にはなりません。
行為ということは意志の実現であり、「主権」の問題であって、聖霊が人間の主権を侵害することはないのです。

 主権とか言い始めますと、何かいかめしく感じるかも知れませんが、要するに「普通に」生活するのです。何も気負う必要はありません。その普通の生活を聖霊が共に歩んでくださるのです。

 神の導きによる様々な事態を通して、自分の望まないことを行わなければならないけれども、そこに神のご意志があるとき、神に従うということが必要になります。
「ほかの人が・・、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」(ヨハネ 21:18)
そこで神に本当に服従するか問われます。


4.証の勧め

 キリスト教は、救われた人の証言によって伝わります。

 私が洗礼を受けた教会について思い巡らすのですが、そこには救いの恵に与ったひとは一人もいなかったと信じます。(長い時間が経ったので、今はどうなっているか知りませんが。)救いの証がされないので、だれもそれを求めません。それでもキリスト教の教会として看板が立てられています。皆さんはそれを、恐ろしいこと、悲しいことと思われませんか?私もその教会で信者になる決心をし、洗礼も受けましたが救われませんでした。
 私の父はそれを察知し、私が仙台にでてくるとき、同じ系列の教会に行かないようにと先回りして、救いときよめを伝えている教会を仙台までやってきて探し、私に、今私が所属している、その探した教会にゆくようにといいました。父は私のためにそういう労と費えを払いました。私はその恩恵に与りました。教会に証があるということはそのくらい大切なことです。

 おなじことが聖化について言えないでしょうか。
  きよめ派の看板は掛かっているけれども、聖化の恵に与ったひとがひとりもいない、そういう教会になっていたら、先に述べた救いのない教会と同様に悲しいことです。それは聖化の恵を頂いた証人を与えてくださるように神の前に泣いて求めるべき事態です。

 聖化の恵に与ったひとがそれを証言することによって、他の人に伝わるのですから、それを頂いているひとは、ためらわずに証をしましょう。
 自分をよく観察し、一体自分の身にどういうことが起きたのか、それを把握して皆さんに伝えるのです。
 聖化の恵に与りましたと証言しても、それは何も、誇ったり、得意になったり、自分を高くしたりしたことにはなりません。聖化の恵は、ただ十字架の贖いによって与えられたものだからです。
逆にきっと聖化の証をする人々は、長い間不従順であった自分を恥ずかしく思っているでしょう。
 聖化の証言を聞く人々には是非そのことをお分かり頂きたいとおもいます。


5.いつ聖化を求めるべきか、未だそれをいただいていない兄姉にいつそれを受けるように勧めるべきか。

 イエスの十字架からペンテコステまでわずか50日しか経っていませんでした。
新生の恵と聖化の恵は一体で、長い期間をおく必要がないことがその事実に示されています。
 ペンテコステの後、ピリポの働きでサマリヤ人が福音を受け入れたと聞いた使徒たちはすぐにペテロとヨハネを派遣し、救われた人々が聖霊を受けるように導きました。
 エペソにいったパウロがまず尋ねたことは、「信じたとき、聖霊を受けましたか」(使徒 19:2)でした。
 救われるとすぐその後で聖霊を受けるということが彼らの常識となっていました。

なぜ、今のキリスト教会はそのように信じないのでしょうか。救われてから何年も何十年も経たないと聖化の恵に与らないと思っているように感じます。

 イエスは「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(ルカ 9:23)と言われました。
 自分の十字架を負うことが「献身」です。
ですから、自分の十字架を負うのと同時に、「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネⅠ 1:7)と信じればよいのです。
 そのとき聖化に与ることができ、うめいて十字架を負うのではなく、「キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ 1:24)と喜んで負うことができるでしょう。

もう一度繰り返します。
「今が救い(きよめ)の日です。」
「主よ。明日信じます」と言うでしょうか?
「彼らの心を信仰によってきよめてくださった」(使徒 15:9)
「聖化」は信仰によって与えて頂くのですから、その時は「今」以外にはないのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ 7:7)