同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— 励ましの御言葉 —

ooi-san

山田 大


「まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます。私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」(詩編138:6-8)

  この年、一つの大きな課題を抱えつつ冒頭の御言葉を支えとしてスタートしました。途中からもう一つの大きな問題が起き、何をしていてもそれらの問題がずっと頭から離れることなく重石のように私を押しつぶし続ける日々が今でも続いています。しかし御言葉によって、私の心は支えられ、課題に取り組む姿勢を正され、考え方の方向性を教えられています。
 先の見えない閉塞感、目の前の課題から逃げ、何もかも放り出してしまたくなる思いなど、信仰者のあるべき姿とは程遠い自らの弱さに愕然としつつも、天を見上げる時にいつもそこに親しくいて下さる方の、御言葉の広さ、深さ、力強さに感動し、讃美が沸き起こります。

 エリヤは、あのカルメル山でのバアルの預言者たちとの対決の後、悪王妃イゼベルにいのちを狙われ追い詰められた時、自分の死を願うほど弱り果てていましたが、神は彼を力づけ、40日40夜の徒歩の旅、激しい大風、地震、そして火の後のかすかな細い声によって彼の進むべき道を示されました。

 ダビデは、600人の人々と共にサウルから逃れていた間、滞在していたツィケラグがアマレク人に襲われ、妻や子供たち、財産が奪われたことにより、民が彼を石で打ち殺そうと言い出した時、「非常に悩んだ」と聖書に記されていますが、彼は主によって奮い立ち、アマレクを追ってすべてを取り戻しました。

 最近の礼拝では、ヨセフの生涯を通して、否応なく押し付けられたかのような現実の中で、遠い他国に売られ、どんどんと信仰の継承の中心から外れてしまう自らの生涯の中、しかしそれでも目の前に与えられた隣人たちのために、神の最善の道を信じ、エジプト人との結婚やエジプト人としての習慣に生きるという苦悩の選択をしなくてはならなかった彼に対し、神はやがてご自身の深い御旨を示し、実は御旨の中心を歩き続けて来たのだということを教えてくださったことを学ばせていただきました。
 
 昨年、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」という御言葉から導かれた祈りについて書かせていただきましたが、自らの進む道の前方が全く見えない中で、信仰者として上を見上げて歩もうとする時、響いて来るものはやはり御言葉でした。確かな神の御旨に沿った祈りに立ち返って、苦しくとも置かれたところに立ち続けることを今年も教えられています。 

   いまだに先は見えません。閉塞感は変わらず、自らの弱さも付き纏っています。この文章も実は全く違う結末を思いながら書き出したものです。もう何も取り繕うことなどない、部屋を暗くし、さめざめと涙を流している自らの弱さを吐露しようとして書いていましたが、書いている中で、神はエリヤやダビデ、ヨセフの姿を次々と思い起こさせてくださり、私を励ましてくださいました。今は別の涙が止まらず、筆を置こうとしております。 

(仙台聖泉キリスト教会 会員)