同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(6) —

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」 (ガラテヤ 2:20)
「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。 」 (コロサイ 1:26-29)
「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリントⅡ 3:18)

 アンドリュー・マーレーが解説している通り、聖霊はペンテコステに「キリストの霊」としておいでになりました。その目的の中心点は、一体となった人間のうちにキリストのかたちを完成することです。
 使徒パウロはそのために労苦しているとのべています。私たちのうちにキリストのかたちが成就することは、うちにおられる聖霊が一足飛びにそれを成し遂げてしまうのではなく、共に生きる人々との接触の中で導かれてできていくのです。ですからそこに信徒の集まりである教会としての働きがあります。
 聖霊がおいでになって、サタンのかたちが破壊されると、ある意味で人は「完全」なものとなったのです。けれども、キリストのかたちというとき、そのかたちには非常に多くのことが含まれています。品性と表現しただけでなんと多くのことがあるでしょう。品性の中の愛を取り上げても、パウロがコリント人への手紙13章に解説しているように非常に多くのことが含まれています。それらを全部を持っているものに一度に変えられるのではなく、私たちひとりひとりが歩む人生のできごとの中で取り扱われて、変えられていくのです。ですからパウロはこう語るのです。
「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」 (ピリピ 3:11-14)
 冒頭、はじめに掲げたのみことばの最後の部分は、文語訳聖書では「神の子の信仰に在りて生くるなり」となっていました。神の子は信仰の対象としてではなく、「神の子の信仰が私の内に宿っていることによって」です。
 前回、聖霊が働かれることがらのなかの信仰と祈りについて、視点を祈りを中心においてとりあげました。今回は視点を「信仰」において考えたいと思います。そしてキリストのかたちですから、「キリストの信仰」について学びたいと思います。それについて、パジェット・ウィルクスの「信仰の動力」第12章「キリストの信仰」を参照します。
なおイエスは、み父のご支配に従われたというような表現が用いられていますが、み父はそのみこころを示されただけで、イエスがご自分でみ父のみこころを行ったのです。

 ウィルクスはこの章の前文に、
使徒パウロはその書簡においてつねに内住のキリストの奥義とその能力を私たちに示しているが、内住のキリストは、
1.信じる者の意識に啓示されるキリスト
  ガラテヤ 1:16
2.内に形成され、他人に顕されるキリスト
  ガラテヤ 4:19
3.愛の源泉としてのキリスト
  エペソ 3:16
4.満足と喜びの原因としてのキリスト
  黙示録 3:20
5.能力の秘訣としてのキリスト
  コリントⅡ 3:13
6.栄光の望としてのキリスト
  コロサイ 1:27
最も大切なものは
7.信仰の本源としてのキリスト
  ガラテヤ 2:20
で、私が本章で語ろうとするものである。」
と述べています。

「神を信じなさい」というとき、ギリシャ語ではいろいろな表現がありますが、イエスが弟子たちに述べたのは特に、「神の信仰を有(持)て」でした。パウロが「神の子の信仰が私の内に宿っている」と述べたことと同じです。
以下ウィルクスの整理に従ってほとんど項目だけですが、記述します。

1.み父の要求に対する信仰
 日本語で「信じる」ことを言い表すために用いられる種々の語は非情に暗示に富んでいる。
(1)信仰・・信じて当てにすること
(2)信用・・信じて用いること
(3)信任・・信じて明け渡すこと
(4)信頼・・信じてより頼むこと
私が今、主イエスについて語ろうとするのはこの第三である。もちろん敢えて降伏の意味で言うことはできないが、主イエスの信仰は愛をもって、そのみ父に一切を献げた信仰であった。・・キリストが私たちの心に住み給うことが深くなればなるほど、・・神の聖なる御要求に服し、順うことのなし易さを見いだすのである。・・。

2.み父の途(みち=手段、手順、経路)に対する信仰
 神のみ子の地上のご生活において最も驚くべきことの一つは、祈祷のその中に占める地位である。・・。
もし主が私たちの内に住み給うならば、神のみ子の信仰は、また同じことを行わないであろうか。・・。
こうして、一層祈祷の必要、その効力、その喜びを信ずるに至ることであろう。

3.み父の能力に対する信仰
 主イエスがみ父に依りすがっておられたことはその聖なるご特質中の恐らく最も驚くべき点であろう。つまり、決して自分の創意に由らない全き服従(ヨハネ 8:42)、決して自分の意志を行わない全き従順(ヨハネ 5:30,8:38)、決して自分の栄光を求めない全き動機(ヨハネ8:30)、決して自分の教えをしない全き謙遜(ヨハネ 7:16)、決して自分の業をしない全き空虚(ヨハネ 14:10)、決して自分の力を用いない全き依頼(ヨハネ 5:19,8:28)であった。・・・。

4.み父の意志に対する信仰
 神のみこころを行うことは主イエスの食物であり飲み物であった。(ヨハネ 4:34)主はそのために生き、また死のうとして来られた。神のみこころをこのように取り扱うことは、みこころの優越性とその最も幸いであることを確信していることを意味する。実に神のみこころは、宇宙におけるすべての事のうち最も安全、最も甘美、最も善良、最も有利なことで、もし不信仰と誤解のベールが私たちの目から取り除かれるなら、そのとおりであることを見、知り、また実証するであろう。こうしてみこころは私たちにとっても、私たちの楽しみ、私たちの喜び、私たちの食物飲み物、また私たちの栄光となるであろう。・・・。

5.み父の賜物に対する信仰
 主が死なれる前夜にささげられた、その祭司的ご祈祷のうちに、私たちは執り成しの祈祷の第一でありその最大のものを見る。 (ヨハネ 17章)
 主はみ父のご自身に与えられたもの、その権威(17:3)、その業(17:4)、そのことば(17:8)、その栄光(17:22)などを豊富に意識しておられたが、その最大の確信と喜びを感じられたのは、ご自身の弟子たちがみ父の賜物であるということであった。主は祈祷のうちに「あなたが私に下さった(賜わった)人々」の意味の語を7回も言われた。このことばが、このように頻繁に繰り返されたことは、弟子たちが主イエスのみこころとみ思いの中にどのような地位を占めていたかをあらわしている。・・。
神の民を信じ、教会の貴重さとその使命、その性質を信じることは、やがて彼らに向かう主の愛の幾分かをもって私たちも兄弟を愛することになる。そうして主の民に対する信仰がいよいよ深く、いよいよ明らかになればなるほど、彼らの対する愛もいよいよ深くなる。こうして私たちは、それが実に潔いこころからの愛、心中に作り出された活きた信仰から生じる愛、すべての聖徒との交わりに経験される愛であることを知るのである。
 内住のキリストは、私たちすべてに対しこのことを意味する。キリストはご自身の民に対する私たちの愛を創造し、支え、養いなさるのである。・・・・。

6.み父のみことばに対する信仰
 神のみことばに基礎を置くのでなければ、合理的な活きた信仰はあり得ない。神のみ子が地上でおくられた信仰の生活も、このようにして送られたのである。主はその生涯を通して、み父のみことば、書き記されたみことば、つまり私たちにあたえられているみことばによって生活された。・・すべて「預言者によって言われたことばを成就するため」であった。・・。
主のご奉仕の範囲もみ父のみことばに対する信仰によって選ばれた。・・。
主のお働きそのものも書き記された神のみことばに対する信仰を通して定められた。・・。
主の御名を広めるその道も聖書に導かれてなされた。・・。
主のご使信の伝え方も聖書に随って定められた。・・・。
私たちもみことばを語り、宣伝し、私たちの使信がみことばに適いさえするなら、人の目に愚かと見えても、それに満足するであろう。・・・。

7.み父の愛に対する信仰  キリストはみ父によって彼に指定されたその業は極めて困難であるにも拘わらず、その福(さいわい)な本筋から彼を引きだそうとするサタンの険悪な企てにもかかわらず、意識的にみ父の愛の中にどどまられた。・・・。
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ 3:17-19)とはキリスト者経験の総体を言い顕すことばである。 私たちの信仰の導き手、また完成者であるキリストはすべてのことにまさって、また見えるところの如何に拘わらず、私たちを神の愛に根ざし、基とさせ続けさせなさるのである。しかしこのことは、書くのは易しいが、その意義を十分に会得するのはいかに難しいことであろうか。
 聖霊によって私たちのこころに注がれる神の愛は、パウロによって四重の愛としてピリピ3:1 に記されている。
(1)個人的に私たちに対するキリストの愛
(2)個人的にキリストに対する私たちの愛
(3)ご自身の民である教会に対するキリストの喜び
(4)世に対するキリストの同情の愛
である。
キリストの御要求を認め、単純に彼の道を信じ、彼の御意の最善であることを知り、彼の愛を味わい、彼の賜物を楽しみ、彼のみ旨によって活きる私たちの生活はなんと豊かになることであろう。・・・。
(パジェット・ウィルクス「信仰の動力」バックストン記念霊交会、昭和26年発行から抜粋引用) ・・同労者ホームページ下欄にあるリンク「パジェット・ウィルクスの著書」から入って、本書の全文を読むことができます。