同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 神の語り方 —


 前にも同じようなことを書いたことがあるが、聖書を読んでいて大変興味深く感じることは、神が何かを語ろうとするとき、実例になるものをお見せになることである。

聖書通読で読んだばかりのところであるが、「そのころ、ヤロブアムがエルサレムから出て来ると、シロ人で預言者であるアヒヤが道で彼に会った。アヒヤは新しい外套を着ていた。そして彼らふたりだけが野原にいた。アヒヤは着ていた新しい外套をつかみ、それを十二切れに引き裂き、ヤロブアムに言った。「十切れを取りなさい。イスラエルの神、主は、こう仰せられます。『見よ。わたしはソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える。しかし、彼には一つの部族だけが残る。それは、わたしのしもべダビデと、わたしがイスラエルの全部族の中から選んだ町、エルサレムに免じてのことである。・・』・・」
(列王記Ⅰ 11:29-32)にそれが示されている。
預言者アヒヤは外套を引き裂かなくても、あとからヤロブアムに伝えたことを口で言えばいいではないか?
ヤロブアムには、なぜ10部族が彼に与えられるのか、その理由も告げられた。
「というのは、彼がわたしを捨て、シドン人の神アシュタロテや、モアブの神ケモシュや、アモン人の神ミルコムを拝み、彼の父ダビデのようには、彼は、わたしの見る目にかなうことを行わず、わたしのおきてと定めを守らず、わたしの道を歩まなかったからである。」(列王記Ⅰ 11:33)
更にこういう約束が付け加えられた。
「わたしがあなたを召したなら、あなたは自分の望むとおりに王となり、イスラエルを治める王とならなければならない。もし、わたしが命じるすべてのことにあなたが聞き従い、わたしの道に歩み、わたしのしもべダビデが行ったように、わたしのおきてと命令とを守って、わたしの見る目にかなうことを行うなら、わたしはあなたとともにおり、わたしがダビデのために建てたように、長く続く家をあなたのために建て、イスラエルをあなたに与えよう。」
(列王記Ⅰ 11:38)
残念ながらヤロブアムには、その理由も、約束も耳に入らなかったようだ。彼には「十切れの外套の切れはし」の印象のみ残ったものと見える。
彼はソロモンと同じような罪に陥った。彼はかつてアロンがイスラエルの民に迫られて造った金の仔牛を造ってこれが主であると宣言したのと同じことをした。彼はダビデのように歩むなら長く続く王国を約束されていたのにそれを投げ捨ててしまった。

 イエスは人々を教えられるとき、例になるものをよく用いられた。たとえば、
「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。」
(マタイ 6:28-31)
 ここでは例話と解説が一緒だが、譬えだけしか語らなかったこともある。その意味を弟子たちだけに解説した。
「その日、イエスは家を出て、湖のほとりにすわっておられた。すると、大ぜいの群衆がみもとに集まったので、イエスは舟に移って腰をおろされた。それで群衆はみな浜に立っていた。イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。  「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。 蒔いているとき、道ばたに落ちた種があった。すると鳥が来て食べてしまった。・・・
別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 耳のある者は聞きなさい。」
 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに言った。「なぜ、彼らにたとえでお話しになったのですか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。・・」(マタイ 13:1-13)

 イエスのなさった譬えだけを語る・・示す・・ことを、最初のヤロブアムにあてはめたらどうだろう?
つまり、十切れの外套の切れ端を彼にとらせて、その意味を言葉では語らない、
としたらヤロブアムは何を悟っただろうか?

 私たちの前にはその事例だけがあって、ことばで意味を解説してもらうことは少ない。
カンダケの宦官が言ったように、
「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」(使徒 8:31)
と言わざるを得ないことが多い。