同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 神の自由 —


 「人間の自由」は、キリスト教の世界でよく議論される題材である。だが「神の自由」はあまり議論されないようだ。
 アンドリュー・マーレーは、著書「キリストと共に-祈りの学校-」の中でこういうことを述べている。

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人間キリスト・イエスの祈りは、御父のふところにおけるひとり子としての永遠の求めと、この地の人々の祈りとを結ぶものです。祈りの起源は、まさに、神の存在そのもののうちにあります。神のふところにあっては、祈りなしに、すなわち、御子が求め、御父が与えることなしには、何事も起こらないのです。
 このことは、人間の祈りが、御子によって、神に対してどんな影響を及ぼすかを理解するのに役立ちます。神の御命令は、御子としての願いを無視した決定ではありません。主イエスは、初めに生まれた方であり、すべてのもののかしらであり、相続者であり、すべてのものは、主イエスによって、主イエスのために造られ、主イエスにあって成り立っているのです。御父の決定にあたって、御子は、全被造物の代表として、いつも発言権を持っておられます。永遠の御計画に関する御命令において、仲保者またとりなし手として御子の自由と、御子にあって御父のもとに来る者たちの願いが受け入れられる余地がいつもそこにあるのです。
 御子が御父に働きかけるこの自由と力は、神の御命令の不変性と矛盾するという考えが起こったなら、取り消すことのできない過去に制限されているのは、神ではなく人間であることを思い起こすべきです。神は過去、未来という時間に生きておられるのではありません。永遠を住まいとされるお方は、時間の区別に関係ありません。永遠はいつも現在で、過去は過去ではなく、未来はいつも現在です。人間の弱さに合わせて、神は過去や未来をお語りになります。事実、神のみこころの不変性は、ご自分の思うままをなさる神の自由と完全さと調和します。御子と民の祈りが、永遠の神のみこころに比べ表面的なものにすぎないとしたら、どうなるでしょうか。御父のこころは開かれており、御子によってみもとに来る者の祈りをいつでも聞いてくださいます。神は、事実、祈りによってでなければならないことを決定なさるのです。
 神の主権と人間の自由のこの完全な調和と一致は、私達には理解困難な奥義です。
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 祈りについての、父なる神と、イエス・キリストと人間の自由の関係について考察している。じっくり考えてみるとよい。
 人間の願いが神の決めたことと違ったらどうなるか? そこにイエス・キリストが仲保者として取りなしてくださったらどなるか? 神は自分で決めたことを変えて、願いを聞き届けられるのか?

 こういう例もある。
「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──主の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行うなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。」(エレミヤ書 18:1-10)

神はこうすると決めた未来のことを、人の如何によって変更する自由をお持ちであることがここに示されている。
「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。」 (申命記 30:19)

 どっちを選ぶか決まっているなどと言いませんように。神がどちらかを選べというのだから、人に選ぶ自由があるのである。
 この聖書の箇所の前後をよめば、人がどうするかによって神は事態を変えると宣言しておられることがわかる。

 神の自由とは、なんとはかりしれないテーマだろうか。