同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(4) —

「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、みな根こそぎにされます。」(マタイ15:13)
「罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。」(ヨハネⅠ 3:8)

 
 皆さんにもう少し説明をして差し上げたいと思いこの記事を続けます。今回は「全的堕落」と呼ばれているものと聖化の関係について取り上げることにします。
 ひとは全的堕落した存在だから、聖化が必要であり、神はそれをひとに与えてくださることを取り上げましょう。

  1. 全的堕落の意味
  2. 聖書が語る生まれたままの人の姿
  3. 全的堕落はサタンのかたち
  4. 全的堕落と聖化
  5. 聖霊はすべてのひとに働かれる


1.全的堕落の意味

 「全的堕落」とは人の心の性質を指していることばで、「善であるものが全くない」こといいます。
「堕落」という表現は、「聖化」という表現と同様に、質の変化を意味しているニュアンスがありますが、それは最初の時、すなわちアダムが罪を犯したときその変化があったのであって、そのあとは変化ではなく定常状態となりました。聖化のあと聖潔の定常状態がつづくことと似ています。ギリシャ語を使う人々は現在完了形で表現されていることを強調します。それは過去のある時点で変化が完了し、現在までその状態が継続していることを意味します。
 今私たちが考察する「全的堕落」は人の内に定常状態で存在します。


2.聖書が語る生まれたままの人の姿

 「生まれたまま」という意味は、イエス・キリストの贖罪に与る以前の人をさします。
 パジェット・ウィルクスが彼の著書「救霊の動力」のなかで、「あなたがたが、人を救いたいと思ったら、人はどういうものか知っていなければならない。」と述べて拾い上げている聖書の箇所をここに挙げておきます。

「神の言葉は、人の生まれつきの願いと愛着の状態を、強烈な表現で描写している。
『やみの方を愛し』(ヨハネ 3:9)、
『快楽を愛する者』(テモテⅡ 3:4)、
『自分を愛する者』(テモテⅡ 3:2)、
『金銭を愛する』(テモテⅠ 6:10)、
『人のほまれを好んだ』(ヨハネ 12:13)。
また人の心については次のように言っている。『心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている』(エレミヤ書 17:9)、
『変えることができようか』(エレミヤ 17:9)・・皮膚の色を変えることができるだろうか?それができないようにあなたがたの心は変わらない・・、
『自分の心を頼む物は愚かである』(箴言 28:26)、
『もっぱら悪を行う』(伝道者の書 8:11)、
『悪い思いが出てくる』(マルコ 7:21-22)。」


 ローマ人への手紙1章に、人はこういうものです、とパウロが書いた言葉を思い出しましょう。長い文章なので一部だけ掲載します。

「・・その思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。・・また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。・・」(ローマ 1:21-32)


ダビデも詩篇にこう述べました。
「愚か者は心の中で、「神はいない」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。 彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」(詩篇 14:1-3)


創世記にこう記されています。

ノアの時の洪水の前の記事ですが、人のこころはいまも同じです。
「主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。」(創世記 6:5 )


 これが生まれたままのひとの姿、すなわち全的堕落の姿です。
 これを他人事としませんように。自分も含めすべてのひとの生まれたままの姿がこれです。取り上げられている全部の事を行うというのではありません。神がわたくしたちにこうしなさいといわれるひとつのことに、それが自分の意に反すると従わないということに、こころの姿が現されます。

 ですからパジェット・ウィルクスはさきの文のあとにこう記しています。
「このことを信じるからこそ、わたしたちは人々を炎の中から取り出して、救いの奇蹟をなしてくださる神に立ち帰らせようと懸命になるのである。」


3.全的堕落はサタンのかたち

 人が全的堕落の状態で生まれてくるにいたった経緯は、創世記のアダムの記事でよく知られています。
 私は、ション・バンヤンが「聖戦」の中に書いた記事に・・「聖戦」は「天路歴程」と同様寓話の形式の著作です・・「ディアボロス(サタン)は人霊の町を攻略するとすぐさま、神のかたち(像)を破壊し代わりに自分のかたち(像)を立てた。」とあるのを読んで、全的堕落の意味を理解しました。

 全的堕落は「サタンのかたち」です。

 ご存じの通り、神はアダムを造られるとき、「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」」(創世記 1:26)・・神がわれわれと言われたのは、父、子、聖霊が相談されたと理解されています・・といわれました。人間は神のかたちに造られたのです。
 バンヤンの書いた、サタンが自分のかたちをひとの内に立てたということは、聖書に直接は書かれていません。神の命令に背いた後、アダムは自分のかたちの子を生んだとだけ書かれていますが、ひとの姿から、バンヤンの聖書理解が正しいことは歴然です。アダムが子を生んだ時、彼はサタンのかたちになっていましたから、ずっとそれが続きました。
つまり「原罪」、「古い人」と呼ばれるものは「サタンのかたち」です。


4.全的堕落と聖化

 救われていないひとが突然聖化の恵みに与かることはありません。
その理由は聖化の恵みはキリストの贖いとして与えられるのですが、その前段階としてまず、新生の恵みが人に与えられます。
新生の恵みは人に善を選ぶ自由を与えるのです。
新生の恵みに与った人は、その自由意志を働かせて自らを神に献げ、キリストの血が自分を潔めると信じることができるのです。
神は「あなたの前に命の道と死の道を置く。あなたは命を選びなさい。」と言われ、私たちはいのちを選んで聖化の恵みに与ります。
救われていない人はその自由を持ち合わせていませんから、聖化の恵みに与ることは決してないのです。
神に自らを献げることが聖化の恵みを受ける条件ですから、以上のような過程を必ず通ります。

 先に述べてきましたように、人は救いの恵みに与ると、実行した罪は赦され、新生のいのちが与えられますが、「古い人」すなわち「サタンのかたち」はその人の中に生き続けます。
 「ひとはこの世に生きている間は罪を犯し続けるものです。『罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。』(ローマ 5:20)」といって済ませているひとは、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7:24)といって悩むことはありません。
「だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。・・そのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。」(ヨハネⅠ 3:9-10)
真剣にそう生きるときパウロの告げた悩みに至ります。

パウロはこう語ります。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ 6:6-7)

 古い人、サタンのかたちはキリストと共に十字架につけられて、罪からの解放が与えられるのであって、それがすなわち聖化です。
 人を自分のかたちにしたことが悪魔のしわざです。新生の恵みを受けた段階では、悪魔のしわざを完全に破壊するにはいたりません。聖化の恵みはその「悪魔のしわざを(完全に)打ちこわす」ことです。


5.聖霊はすべての人に働かれる

 全的堕落した人が救いに与ることは、大変興味深いテーマです。
ある日目が覚めたら救われていた、などということは決してありません。救われるには「過程」があります。

 先に述べましたバンヤンは聖戦の中に、サタンの城となった人霊の町を、インマヌエル(イエス・キリスト)が奪還しにきて、戦いを繰り広げ、人霊の町を取り返す様を書いています。ですからそれが「聖戦」なのです。 人間には目、耳、鼻、・・といった五官があります。それが人間と外界の交通の門です。サタンが人間を陥れたときもそれを通してでした。イエスが人をサタンから取り返すときも同じように人間の、目門、耳門・・を通して人のうちに入るのです。耳門から神の言葉を聞かせますが、サタンは抵抗して、それが耳に入らないように妨害します。
 「聖戦」を読んで救いたい隣人に対するアプローチの方法を研究するとよいでしょう。

 また先にあげた、パジェット・ウィルクスの「救霊の動力」も人を救いたいと思ったらぜひともそれに精通しておくとよい本です。

 イエスのたとえ話の、失われた一匹の羊は羊が牧者を探したのではなく、牧者が羊を探したということはよく例に挙げられます。全的堕落をした人間が神を探し求めたのではなく、神が人間に近づいて下さったのだと。
 イエスの話された放蕩息子の話では、子が父の元に自ら戻ったように思うかもしれません。
実際には、彼は放蕩していたときも父の手の中にあったと言えるのです。父はそれを見越して、真の親子となるために弟息子をだしてやったのです。彼が父のもとに帰れたのは、神のお取り扱いにあります。飢え死にしそうだという自分の状況、父の元にいればどうであるか理解できたこと、立って父の元に行き悔い改める決心できたこと、それを実行したこと、これが出来る背景に聖霊の豊かな助けがあります。


 救いの恵みに与った人に聖霊が働いてくださることは抵抗なく受け入れられていますが、全的堕落し、神に背いている人々には、聖霊は働いて下さらないと思われがちのようです。
「自分の罪を認めることは善である、悔い改めることは善である、十字架の贖いを信じることは善である。全的堕落をした者には善なるものは存在しないのだからそれはできないはずである。」という見解に対して、まだ救われていない特定の人に聖霊が働いて下さると主張する、「先行的恩寵」という言い方にも、聖霊は救われたひとにのみ働かれるというニュアンスがあり、特別な場合にその恩寵に与るという考えが根底にあります。

   聖霊はすべての人に働かれることを知っておきましょう。

放蕩息子が父のもとに帰ることができた、その過程としてのお取り扱いを、聖霊はすべての人にして下さっています。
子どもの時教会のなかで育った人は、放蕩息子のように帰って行くところを知っています。
放蕩息子は飢え死にしそうだという生活の状況でしたが、私の例では、こころが「虚しい」ということでした。それで立って教会に行ったのでした。
 残念なことに、不信者の親のもとに育ったひとは、その帰って行くところを知らないので、聖霊はそこに導くことがおできならないのです。
 しかしそのような人々も、信者と接触するなかで、その信者のうちに自分の帰っていくところを見いだすことがあります。
私たちがそのような意味で「世の光」であることを願ってやみません。