同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(5) —

「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ 4:5)
「キリストがそうされた(ご自身を献げられた)のは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ 5:26)

 今回はこのテーマの中心である聖霊について解説します。
 1.ひとに仕えておられる聖霊なる神
 2.聖霊と教会の時代
 3.信仰と祈りの霊

1.人に仕えておられる聖霊なる神
 教会にくると「三位一体(さんみいったい)」の神ということばを聞くので皆さんもよくご存じのことでしょうけれどももう一度記します。
 神は、父、子、聖霊としてご自身を示しておられます。それぞれ独立の人格をお持ちですので、人間で言えば三人の方がおられることになります。しかし一方で神はおひとりである、と言われますので、昔の神学者たちが父、子、聖霊について、人格といわず「位格」と呼びました。それで三位の方がお一人の神であることを「三位一体」と表現しました。
 前にも触れましたが、父、子、聖霊は神であって神の本性、属性のすべてをお持ちです。
 「聖霊は人格を持たれた神です。」

 これまで述べてきましたように、聖霊は人と一体になることができます。
イエスも人となられましたから、イエスに聖霊が降り、人間イエスと一体になられました。それが、イエスが地上で人間として生きておられた間、イエスは人間であるにもかかわらず神の力を示された理由です。
 冒頭最初に掲げたみことばの神は「父なる神」です。神がみ子を愛しておられることはよく知られていますが、聖霊を「ねたむほどに」愛しておられることはあまり意識されていないことでしょう。
 み子が贖罪のために地上生涯をおくられ、十字架の死を遂げられて、父への従順をしめされたので、父はこよなくみ子を愛しておられることを私たちはよく知っています。
 「私たちのうちに住まわせた御霊を」父が愛される理由は、神であられる聖霊が「人と一体となって」ひとに仕えておられることを父なる神が値高く評価しておられることを示しています。
 繰り返しますが、人に降った聖霊は、人を支配しているのではなく「ひとに仕えて」おられるのです。聖霊は「助け主」すなわち「助力者」です。

 私たちもみ子と共に死に、聖霊と共に人に仕えて生きるなら、父は私たちを「ねたむほどに」愛してくださいます。

2.聖霊と教会の時代
 今はイエスは天に帰られて、代わりに聖霊が働いておられる時代です。
 イエスは天に帰られる直前に、弟子たちに宣教するようにと命令されました。そうして信じた人々は、教会を形成しました。いまもそれが続いています。

 いろいろな場面で強調してきたことなのですが、隣人を救うことに成功すると、完成した信者ができあがったように錯覚し、あと何もせずに放置することが、多くあるように感じます。
 救われたばかりの信者は、神をよろこぶと同時に、どうしても神のみこころに従えないものを内に秘めています。それでは、キリストの花嫁には相応しくないのです。 ですから聖霊は、その信者がキリストの花嫁に相応しいものとなるように「苦闘」しておられるのです。
「聖く傷のないものとなった栄光の教会」は、聖化の恵みによって実現します。それは「キリストがご自身を献げられ」て、人がそれを受け取ることができるようにされたのであって、それを実際に人に実現するのは聖霊のお働きです。
聖化の恵みに与り、聖潔に生きているひとは、聖霊と共にそこに至っていない人々を助けることができます。

3.信仰と祈りの霊
 神は私たちに神の力を用いる手段を示し、それによって神がみ手を動かしてくださることを約束されました。その鍵は「信仰」と「祈り」です。

「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 (マルコ 11:23-24)
「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。」(ヨハネⅠ 5:14)
 聖霊は私たちの信仰、祈りを助けてくださるお方です。聖霊なしにはそれはありえません。

祈りについてアンドリュー・マーレーに学びましょう。

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。・・その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」(ヨハネ 16:23-26)
「その日」が何を意味するのかを私たちは知っています。それは聖霊が注がれる日です。
・・・
 聖霊の降臨が、どうして祈りの世界の新しい時代を画するものであるかを理解するには、聖霊がどのようなお方で、そのみわざがどのようなものであり、イエスが栄化されるまで与えられなかった意味は何かなどを理解しなければなりません。神は御霊のうちに存在されます。神は霊だからです。
御霊にあって御子は御父から生まれました。御霊の交わりの中にあって、御父と御子は一つなのです。御子に永遠に与え続ける御父の大権と、永遠に求め、与え続ける御子の権利と祝福、このいのちと愛の交流は、御霊によって保たれています。永遠の昔からそうでした。そして、御子が、仲保者として生きて祈っておられる今日は、特にそうです。自らの体によって、神と人間を和解させるという、イエスがこの地で始められた偉大なみわざは、天においても続けられています。イエスはこれを成し遂げるために、神の義と人間の罪との戦いをご自分の身に負われました。十字架上で、イエスは自らの体をもって、この戦いを永遠に終わらせました。そしてイエスは昇天されました。それ以来、イエスは、ご自分の体(教会)のすべての肢体(教会員の一人一人)が、救いを宣べ伝え、イエスが獲得した勝利を現すことを望んでおられます。イエスがいつも生きて祈っておられるのはこのためです。イエスは、絶えず取りなしの祈りをささげることにより、ご自身が贖った者たちの絶えざる祈りと生きた交わりを持ち続けられます。むしろ次のように言った方がよいかもしれません。彼らの祈りの中に、イエスのとりなしの祈りそのものが反映され、それまで経験したことのない力が与えられるのです、と。
 イエスは、これを聖霊によって行われます。栄化されたイエスの霊である聖霊は、イエスが栄化されるまでは注がれませんでした。(ヨハネ 7:39)御父のこの賜物は、著しく新しいもので、旧約時代の聖徒たちが知っていたものとは、全く違っていました。キリストが幕の内側に入られた時、御血が天にもたらしたみわざは、極めて現実的で新しいものです。キリストの復活の力と昇天の栄光にあずかった私たちの人性の贖いは全く現実のもので、また、キリストが私たちの人性をとったまま三位一体の神のいのちに入られたことは、私たちの思いをはるかに越えた意義のあるものです。したがって、キリストが成し遂げられたみわざを、私たちのこころにあかしするために来られた聖霊は、旧約時代の聖霊とは、もはや違っておられました。「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、聖霊はまだ注がれていなかった」というのは、文字通り真実です。聖霊は、今や、栄化されたイエスの霊としておいでになりました。永遠の神であられる御子でさえも、人間という新しい存在となり、以前とは異なる姿で天にお帰りになりました。同じように、御子が昇天して、御父からお受けになった恵みの御霊も、以前にはもたらされなかった新しいいのちを私たちにもたらしてくださったのです。旧約時代には、御霊は神の霊として呼び求められましたが、ペンテコステでは、栄化されたイエスの霊として、完成された贖いの完全な実と力をもたらすためにおくだりになったのです。
 キリストのとりなしの祈りによって、キリストの贖いの効力と適用が保たれています。キリストが私たちにお遣わしになる聖霊によって、絶えずささげられるキリストの祈りの大河の中に私たちも引き込まれるのです。御霊は無言で私たちのために祈ってくださいます。時には、考えも形をなさない心の奥底で、御霊は、三位一体の神のいのちの驚くべき流れの中に私たちを入れてくださるのです。御霊によって、キリストの祈りは私たちのものとなり、私たちの祈りはキリストのものとなります。私たちは、自分の望ものを求め、与えられます。そして、経験によって私たちは、「あなたがたは今まで、何もわたしお名によって求めたことがありません。その日には、あなた方はわたしの名によって求めるのです」ということを理解します。
 兄弟よ。私たちの喜びが満ちあふれるために、キリストの御名によって求めなければならないことは、聖霊のバプテスマです。これは旧約聖書の神の御霊以上のものです。これはペンテコステ以前に弟子たちが受けた回心と新生の御霊以上のものです。これは、その影響力とみわざを伴った御霊以上のものです。これは、携挙の力を帯びた栄化されたイエスの霊、私たちのうちに御子と御父を啓示する内住のイエスの霊としておいでになった御霊です。(ヨハネ 14:16-23)この御霊が、祈りの時だけの御霊ではなく、全生活の歩みの御霊となり、この御霊がイエスのみわざをあますところな私たちに示し、私たちをキリストと一つにし、キリストに似たものとしてくださる時、私たちはその行いにおいてキリストと一つとなり、キリストの御名によって祈ることができるのです。私たちは、そのわざにおいて主と一つになるからです。その時はまた、直接御父に近づくことができるのです。それについてイエスはこう言われました。「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。」そうなるためには、栄化されたお方の御霊こそ、神を信じる者たちが必要としているお方であることを理解するとともに信じなければなりません。そうする時、「すべての祈りと願いを用いて、どんな時にも御霊によって祈り」とか「聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち」とか、「その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです」などのみことばを悟る様になります。

--アンドリュー・マーレー「キリストと共に-祈りの学校」いのちのことば社、1981年6月25日発行、25課から抜粋--