同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 神の語り方-2 —


 ここに書くことは、聖書に書かれている事だから、聖書を読んでいる皆さんはきっと既にご存じのことであろう。が、しかしこういう表現をするとお叱りを受けるかも知れないが、聖書は何度読んでも面白い。
ご存じの皆さんも一緒に読んで楽しもうではありませんか。

 例えば、神はアブラハムのところにおいでになってこう言われた。
「その人たちは、そこを立って、ソドムを見おろすほうへ上って行った。アブラハムも彼らを見送るために、彼らといっしょに歩いていた。・・・そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。わたしは下って行って、わたしに届いた叫びどおりに、彼らが実際に行っているかどうかを見よう。わたしは知りたいのだ。」」(創世記 18:16, 20-21)
神は全知全能のお方、地上に降りてこなくてもすべてをご存じのはずである。にもかかわらず、地に降りてこられて「しかと事実を見定めるのだ」と仰った。
 ここの箇所では、神がソドムとゴモラを滅ぼす前にアブラハムに告げる理由がのべられている。
「主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行わせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」(創世記 18:17-19)
神はソドムとゴモラの実態を見定めるとともに、滅ぼす理由をあらかじめアブラハムに告げておくことが目的であったであろう。
 アブラハムはその理由をしっかりとこころに納め、イサクに伝えたからこの記事が残ったのである。それは続く彼の子孫がソドムとゴモラの轍を踏まないようになるためだった。

残念ながら、こういうことも告げられている。
「私の民の娘の咎は、人手によらず、たちまちくつがえされたソドムの罪より大きい。」(哀歌 4:6) 「(ユダに対して)わたしは誓って言うが、──神である主の御告げ──あなたの妹ソドムとその娘たちは決して、あなたと、あなたの娘たちがしたほどのことはしなかった。だが、あなたの妹ソドムの不義はこうだった。彼女とその娘たちは高慢で、食物に飽き、安逸をむさぼり、乏しい者や、貧しい者の世話をしなかった。彼女たちは高ぶって、わたしの前で忌みきらうべきことをしたので、わたしはこれを見たとき、彼らを取り除いた。・・・」(エゼキエル書 16:48-58)

 イエスはこう言われた。
「それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。・・・
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」(マタイ 11:20-24)

 アブラハムの時代には、神ご自身がおいでになって、しっかり見定めたことであろうが、今は、聖霊が常に私たちの行状を見定めておられる。
悪いことの方に目が向いているが、善いこともしっかりと見定めてくださるのである。