同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(10) —

「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ 3:11)
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」(使徒 2:1-4)

  これまで考察してきた問題の中心は、
・聖霊のバプテスマ
・聖霊に満たされた
の2点にあります。聖霊のバプテスマは聖霊に満たされていなかったひとが、聖霊に満たされた状態になる境界のできごとです。それは一時の経験であって、水のバプテスマを考えると分かります。だんだん水につかったり、水にいつまでもつかってバプテスマを受け続けるなどということはありません。聖霊のバプテスマも同じです。
 その神が備えられた人の救いに関する位置づけを考察してきました。
今回はそれについての、
1. 主の弟子たちの経験
2. パウロの経験
3. 私たちの経験
を考察しておきましょう。
1.2.は皆さんのよくご存じのことですが、もう一度述べておきます。

1.主の弟子たちの経験

1) 主の直弟子たちの多くは、バプテスマのヨハネの弟子であって、既にヨハネから水のバプテスマを授けられていたと思われます。
2) 彼らはヨハネから冒頭に掲げたみことばの通り、イエスを「聖霊と火とのバプテスマを授けるお方」と紹介されていましたが、その経験はしていませんでした。そしてそれが何のことか全く分かっていなかったものと思われます。
3) 弟子たちはイエスの死と復活を目の当たりにしましたが、気落ちして故郷のガリラヤに帰り、漁師でしたから、気を紛らすために漁に出かける状態でした。
4) ガリラヤ湖の岸で再びイエスにお会いし、力づけられて、エルサレムに戻り、2階座敷に集まって聖霊を求めて祈りました。集まった人数は120名ほどであったとあります。またイエスが弟子たちにあらわれたのは40日とあり、ペンテコステまで10日残されていましたからその期間である、10日間祈ったことが分かります。
5) ペンテコステの日のできごとは、冒頭のみことばに記されています。
「炎のようなもの」を見せてくださったのはそれが「聖霊と火のバプテスマ」であることを神が示されたのです。先に述べましたようにそれは一時の経験で、彼らは「聖霊に満たされた」人となったのです。そして聖霊に満たされた状態は常にそうであり続けたのです。
6) 聖霊に満たされた彼らは、力ある主の働き人に変わり、福音宣教の中心的役割がパウロに引き継がれるまでその働きは続きました。もちろん、パウロが働いている間も彼らも宣教に努めたであろうことはいうまでもありません。

2.パウロの経験

1) パウロはガマリエルというパリサイ派の教師(ラビ)に学んだ、熱心なパリサイ人でした。自分がそういう人間であったことは、彼を迫害したパリサイ人たち自身が証言できることだと、パウロはサンヒドリン議会で述べています。
2) パウロがキリスト教、キリスト者とかかわった記録は、ステパノの殉教の時からしかなく、それ以前のことは折々のパウロのことばから拾い出されています。
3) パウロはキリスト教を異端とみなし、キリスト教を絶滅させようとしました。
4) キリスト教徒を捕らえてエルサレムに引き立ててくる目的で、祭司長の添え文(その役目の任命書)をもらい、シリアのダマスコまで出かけていきました。
5) 彼はその途上ダマスコの門外でイエスにお会いしました。それについてこう書かれています。
「ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです。」同行していた人たちは、声は聞こえても、だれも見えないので、ものも言えずに立っていた。サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。」(使徒 9:3-9)
6) この状態のパウロのもとに神から派遣されたのはアナニヤという人物でした。そのときアナニヤに神が語られたことばに大切なことが二つ含まれています。
「サウロというタルソ人をユダの家に尋ねなさい。そこで、彼は祈っています。」(使徒 9:11)
パウロのこの祈りはパリサイ人の祈りではなく、キリスト者の祈りです。彼はイエスにお会いしたとき、救いの恵みに与ったことは明らかです。
もうひとつは、神はアナニヤを通して語られました。
「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」(使徒 9:17)
このときパウロは目が見えるようになると同時に聖霊に満たされました。 7) それ以後のパウロの生涯には、聖霊の満たしによる力強い歩みが記され続けています。彼が自らの信仰の問題で悩んだり揺り動かされたりしたことは全く記されていません。ですから、ローマ人への手紙7章の終わりの部分に書かれている、
「そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ローマ 7:21-24)という経験はパウロ自身のものではありえません。
ここを取り上げるとローマ人への手紙全体を説明しなければならなくなってしまいますが、パウロはまず救いの段階について、律法を行うことによるのではなく、信仰によって救われるのであることを述べます。次に
「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ 6:1-2)
と切り出して、聖潔の問題を説いています。つまり、救いの恵みに与った人は罪を犯してはいけない、ということです。
そのなかで、聖潔は行いに現れるものですから、それを律法を行うことによって達成しようとするときに起きてくる問題をこの7章に語っています。ですからこれは一般論と解すべきです。そしてその悩みは律法によってではなく、聖霊の満たしによって解決されることを述べています。
「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ 8:2) 救いも聖化、聖潔もイエスの十字架の贖いにより、聖霊が働いて下さって与えられるものであることが示されています。

3.私たちの経験

 主の直弟子たちやパウロと同じ経験が私たちにも与えられるのであることは明らかです。
 ここには述べませんが多くの人がそれを証言しています。
 強調しておきたいことは、聖化は聖霊のバプテスマによる瞬時の経験であり、その後に聖霊に満たされた聖潔の状態が続くことです。
 決して段々聖化されていくことを神に求めたりしませんように。段々聖霊のバプテスマを受けるということはありませんから。

繰り返し強調してきましたが、信仰は「今信じること」にあります。