同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— ペンテコステに学んでおくべきこと(9) —

「一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、 神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」(ヘブル 5:4-6)
「御霊を消してはなりません。」(テサロニケⅠ 5:19)

 一度聖化の恵みに与ったひとが、その状態から転落し、その恵みを失うケースについて考察しておきましょう。聖化を論じている人々の書に恵みに確立する前に、恵みを受けた状態と、それを失ってしまい、救われた当初の信仰の状態とを行き来することも珍しくないと解説されています。
 しかし、聖霊が内住してくださり、私たちと一体となって守って下さっている状況は、信仰生活の上では大変強力で、讃美歌に

 汚れしこの世のさざめきより
 遙かに離れて憩う我
 再び恐れを持つことなし
 こはベウラの地なれば

と歌われている状態をいただけることは間違いありませんから、その恵みをいただいたあとで、恵みを失うのはよくよくのことです。

 私は自分自身の経験としてときどき証をしていますが、聖化の恵みに至る前にも、霊的な進歩を自覚して聖化の恵みを受けたのだと錯覚したことがあります。大学2年の時、救いの恵みに与ってまもなくのこと、それまで夢中になっていたフォークダンスについて、「それをやっていていいのかい?」と神に示されたことがありました。それで「はい。止めます。」と神に申し上げ、ダンス靴やレコードなど一切を牧師のところに持っていってお渡しし、理由をお話しし一緒に祈って頂きました。そのとき確かに霊的な前進がありました。それで聖化の恵みをいただいたのだと思いました。
 ひと月ほど後、インマヌエル教団による山形に新しい教会をつくる開拓伝道がありました。私ともう一人の兄弟がそのお手伝いに派遣されました。そのときホーリネス教団山形教会のご婦人の先生もお手伝いに来て下さっていて、その先生ときよめの話になりました。そのときその先生から「聖霊経験をなさったのですね。」と聞かれましたが、私は「はい」と言えませんでした。それで、私は自分がその恵みに届いていないことを理解しました。
 この私のような状態のまま、聖化の恵みを受けたつもり、でもまたもと通りのことをやっている、ということもあるかも知れません。そのような例は除いて、本当にしっかりと恵みを頂いた後に、それを失うということを考えましょう。

 それで今回は次のことを考察します。

1. 聖化、聖潔の状態からの転落の可能性
2. 転落をもたらすものは何か
3. 聖化の恵みを失った人物の例
4. 一度失った聖化の恵みに立ち返ること

1.聖化、聖潔の状態からの転落の可能性

この問題は、聖化の恵みの原点ともいえる、ジョン・ウェスレーの「キリスト者の完全」の中ですでに論じられています。
 ウェスレーは、完全であったアダムさえ誘惑に陥ったのであるから、まして罪の中に生まれ、罪を犯したことのある人間は、アダムよりもっと誘惑に陥りやすいのだと述べています。
 聖化の恵みは私たちを誘惑から解放するものではなく、もっともサタンの標的となるものです。この世の人と区別がつかないような信者であったら、サタンは放っておいても何でもないと思うでしょう。
それでこう勧められています。
「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ 6:11-12)
悪魔にしっかりと対抗して立っていないと足下をすくわれます。それが転落の可能性です。
なぜ聖化の恵みをうけていながら、誘惑に負けて罪を犯すことがありうるのでしょうか。それは、繰り返し述べてきたように、人は自由であって、聖霊が内住されてもその自由はそのままあります。人が自分で意志して行動するところにその可能性が常に存在します。

2.転落をもたらすものは何か

 聖化の恵みから転落するのは、もちろん罪を犯すことにあります。
 悪魔の誘惑は巧妙で、罪と思えないものをその入口とします。アダムの場合、知識の木の実は
「その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。」(創世記 3:6)
のでした。
私たちにやってくる誘惑も同じように好ましく見えることでしょう。
パウロの教えは的確です。
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」 (ローマ 12:3)
「互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」(ローマ 12:16)
こういうことを大切に守るなら、恵みのうちに守られるでしょう。
 世の中の立場においても、高い地位につくと自分を偉いものと思いやすいのです。そしてそれを教会のなかに持ち込みます。
 また「かつて犯したことのある罪」に警戒することが大切です。人は同じ罪に陥りやすいのです。

3.聖化の恵みを失った人物の例

 聖化の恵みを受けていながら、後にそれを失った人物が聖書の中に書かれているか、ということについて、明確にそう記載されているのではなく、推測を加えての判断ですが、デマスという人物はそれに該当するだろうと思われます。 デマスは、パウロがコロサイ人への手紙と、ピレモンへの手紙にこう書いた人物でした。
「愛する医者ルカ、それにデマスが、あなたがたによろしくと言っています。」(コロサイ 4:14)
「私の同労者たちであるマルコ、アリスタルコ、デマス、ルカからもよろしくと言っています。」(ピレモン 24)
 両方ともパウロがローマの獄中で書いた手紙です。そしてその中でデマスは彼の「同労者」に数えられています。
 当時のキリスト教会の風土は、キリストを信じた人々はすぐ、聖霊を受けるように導かれ、聖霊を受けているのが当然とされていました。
サマリヤ人がキリストを受け入れたときすぐに使徒たちが派遣され、その人々が聖霊を受けるようにしました。そして実際に彼らが聖霊を受けたことが記されています。
またパウロがエペソにいって最初に聞いたことは、「信じたとき、聖霊を受けましたか」でした。そしてそこの信者たちパウロに導かれてすぐその場で聖霊を受けました。
 ですから、パウロがデマスを自分の同労者と呼ぶとき、当然彼は聖霊を受けた人物であったと思われます。

ところが、パウロの最後の手紙とされているテモテへの手紙第二に、パウロはこう記しました。
「デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」(テモテⅡ 4:10)
この世を愛し、パウロを捨てた人物が、聖化の恵みを保っているとは考えられません。デマスの行動の理由は「この世を愛した」ことにありました。その中身はバンヤンが天路歴程の中で「空の市」で売られているものを列挙していますので、それが参考になります。その中の何かであったことでしょう。
参考までに付け加えますが、パウロと意見が合わないで、去ったバルナバは、福音宣教の本流から逸れてしまいましたが、恵みを失った訳ではありません。彼が連れて行ったマルコは、先にあげたピレモンへの手紙に書かれているように、後に、パウロのところにいき、彼の同労者にかぞえられています。

4.一度失った聖化の恵みに立ち返ること

 聖化の恵みに立ち返る道は単純で、始めに受けたときと同じことをすればよいのです。冒頭に掲げたみことばを恐れて、それができなかったひとの例が記されていますが、そう考えなくてよいのです。神は恵みを失ったことを悲しまれ、もう一度立ち返ることを喜ばれるのです。エゼキエル書33章に記されている神のあり方は不変です。それが新約の時代には、イエス・キリストを信じる信仰についてそうされます。
 神に自分を明け渡し、十字架の贖いによって潔めてくださる主を信じる信仰に立ち帰ることです。