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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-109  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 3章


 ダビデの王朝がいよいよ始まり、2章のところではダビデ家とサウル家の部下同士の戦いからダビデが優勢かと思われるような場面がみられる。その後の3章からはダビデのヘブロンでの繁栄が多くの子どもたちの姿によって表されている。ダビデは着実に自らをイスラエルの王とするために周辺の人々とのつながりを持っていたことがここから分かる。そのため彼には多くの妻がおり。多くの子どもがあった。後々この子どもたちがダビデの人生に大きくかかわってくる。
サウルの家とダビデの家はまだ戦っている。サウルはアブネルという人物をサウル家のために残しておいた。彼がいかに優秀だったかを知っていたからである。アブネルがどのように動いていくかがこのところでのカギになっている。アブネルは神を知っていた。サウルの王としての生活が信仰と共に始まったようにアブネルにもサウル王を通して得た神との交わりがあった。アブネルはサウル家に残されたイシュ・ボシェテは王の器ではないことに気づいてしまう。そしてむしろ、神が選ばれたのはダビデであることを確信したのだろう。サウルは後の自らの家のためにアブネルを残したが、不思議なことに彼はダビデをイスラエルの王にするための第一人者となる。ダビデが働きかけていないにもかかわらず、アブネルの行いによって最終的にはイスラエル全体がダビデを王にするということに一致している。ダビデはこの先もアブネルとの関わりを持ちイスラエルを発展させていく腹積もりだった。しかし、ヨアブは彼を暗殺してしまう。ダビデは決してこのことを予想できなかったわけではないだろう。ヨアブはアブネルに兄弟を殺されているので、すこし考えればこのままヨアブに何も忠告しなかったのなら復讐に走るかもしれないとわかるだろう。にもかかわらず、彼は手を打たなかった。その結果がアブネルの死であった。これによりイスラエルは混乱し、再びバラバラになってしまうところだった。それを危惧したダビデは真実な姿勢をもってアブネルの死に対峙した。悲しみの歌や断食、35節で誓って語ったことによって民はこのことがダビデから出たことではないことを認めた。言い方を変えればダビデはそう演出したのである。本当にこれが自らから出たことではないことを示した。この一連のことをダビデがその裏で手を引いていたというようなことを考える者もいたであろうが、あくまで彼は予想できるような問題を放置しただけだった。そこがダビデの弱さである。ダビデは王になったにもかかわらず、詰めの甘さがあった。そこには王という立場に対する責任感の希薄さが見え隠れする。彼はこの問題が起こって後悔しただろう。ダビデならこの出来事が起こる可能性は予測できたと語ったが、だからこそ、彼はこうしておけばよかったと悔んだ。そこで彼は対策としてすぐさまアブネルの死を悼む演出的な行動をとったのである。それは彼にとってしなければならない責任を果たす行動となったのである。私たちはこのようなことを聞くとなぜ神はアブネルを殺させてしまったのか、神が防いでくださればと考えるかもしれない。しかし、そういうものではない。神は私たちが成長するためにこのようなことを用いられるのである。ダビデはこれによって王としての責任の重さと、その役目を果たすために自分がするべき働きをもう一度認識した。そして王として彼はこれからの人生を神と共に歩むことで成長していく。その召しに足りるものとして成長させられるのである。
信仰者はどのように神の召しに生きるのだろうか。その道は確かに困難である。しかし、神の摂理の中を生きる時、それに必要な変革が与えられるのである。


Q:先日の礼拝で取り上げられた、ヨセフと兄弟が食事を行ったときの話がありましたが、その際に彼はベニヤミンを特別扱いしてもてなしていました。その意図は何だったのでしょうか。

A:私たちは異母兄弟というものがどういうものか体験していないので本当にどうだったのかということは分からない。しかし予想するならば、ヨセフが兄弟との間でそのような確執があっただろうことは考えられる。その意味でヨセフにとってベニヤミンは実の弟である。だからこそ彼はベニヤミンを特別に扱ったと考えられるだろう。
この一連のヨセフと兄弟たちとのやり取りの中でヨセフが試みたかったことは、兄弟が変わっているかというところだった。だからこそ、最後に自らのカップの見つかったものを奴隷にするとしたのである。この状況は奴隷にされたヨセフと同じであった。盗みをしたのが悪いとベニヤミンを置いていくようであれば、彼らが変わっていないという証拠だったのである。しかし、彼らは確かに奴隷にされそうだったベニヤミンをかばった。この当時エジプトまでの道のりはどのようなことがあるかわからないような状態だった。誰かが守ってくれるわけではないため、その道中で何があるかわからないのである。だからこそヤコブはベニヤミンを特別扱いして、ほかの兄弟だけで食料を買ってこさせようとしたのである。しかし、それは許されなかった。兄弟たちはヨセフがベニヤミンを連れてくることを望み、そうでなければもう二度と行くことはできないとヤコブに告げた。ヤコブにとっても苦しみの出来事だっただろう。しかし、そのままでは飢えて滅びてしまう。ヤコブはその中でこのことを主にゆだね、ベニヤミンを兄弟たちと送り出した。ヤコブにとっても、兄弟たちにとっても試練の出来事だった。だからこそこの後ヨセフはこの出来事について互いを責めないようにということを語っている。それはこの出来事がだれの責任であるかと争うのではなく、神の御業がなされたということの意味をもう一度考えていくことを求めたのである。彼らには人の業ではない神の業を自分のものにしていくことができるかということが求められたのだ。 神により召されヨセフは兄弟たちに贖罪を求めた。それは彼らが本当の意味でイスラエルという民族になっていくため必要な出来事であった。彼らはその罪を告白した。そして本来自らがなすべき役割を果たす必要があると困難な道を逃げずに自らを神にゆだねたのである。彼らが神と共に生きる信仰を持たなければなしえなかったことである。今年の主題となっている変革とは決して私たちが努力などで変わることではない。それは神の御業によって変えられることである。神の御手に陥り、自分を変革していくことが私たちにとって必要なことであり、大切にしていくべきことなのである。
兄弟たちは確かに変革が与えられた。だからこそ、イスラエル民族として、神の民として道が開かれた。なお私たちも神の御手にすべてをゆだね、自らを変革し、神の召しに応えられるものとさせていただきたく願う。


Q:先日の教会学校の創世記の学びの中で、ヤコブの娘ディナに対するシェケムへの行いに怒ったシメオンとレビの対応があまりにも残虐であったことで罪と定められたことが取り上げられたのですが、私たちは信仰者として怒りにとらわれないようどのように対応していくことが必要なのでしょうか。

A:怒りや様々な負の感情を抱く前にシミュレーションしていくことが感情をコントロールしていくうえで大切である。つまり、相手がこのような対応をしてくるかもしれないと考えておくことが必要である。私たちにとって予想していなかったことに直面することはどのような場合においても感情を大きく揺るがすことになる。誰でも考えてもみなかったハプニングには動揺するものである。そうならないためにも、日々のシミュレーションを綿密に行っていくことが必要になるのである。「こうなるかもしれない」と考えていれば私たちの精神的衝撃を緩和することが可能なのである。自分がどのようなものであるか、どこに弱さがあるか、どんな時に怒ってしまうのかというような対応を考えていくことが求められるのである。それを日々考えていくこと、意識していくこと、意志してその時間を持つことで守られるのである。それによって私たちは自らを知り、コントロールしていくことができるのである。また食事や睡眠、休養をしっかりと管理することも私たちの心に余裕を持たせていくためには必要なこととなる。これらが管理されていないと、疲れやその偏りから感情に大きな影響を及ぼす場合もあるからだ。そしてこのような時に考えていかなければならないのが、私たちの上になぜそのように怒ったり、悲しんだりする出来事が起こるのかということである。このような出来事は神が私たちの弱さにわざわざ触られる故に起こることと考えなければならない。それは先ほどの弱さや過ちが起こる可能性が分かっているにもかかわらず、あらかじめ防ぐ努力を怠るから行われるのと同じであるが、あえて神が私たちの足らなさや、変化を必要とする部分を示すかのように表されるのである。それは確かに苦しいことや、怒ることかもしれない。しかしそれによって私たちには成長が与えられる。このような環境がなければ私たちは結局変革せずに今できることで甘んじて時を過ごしてしまうことが大いにあるのである。だからこそ、その所を意識し、越えていく必要があるだろう。しかし、この出来事は確実にあなたに成長を与え、豊かな祝福の実を実らせるものになるのである。


Q:最近夫婦の中で娘に対して片方が注意をしたときにもう片方が子どもと話をして、きちんとその子を謝りに行かせ、その後悔い改めてお祈りをするという取り組みをしているのですが、このようにしていてよろしいでしょうか。何か大切にすべきことはありますか。

A:そのまま取り組んでいってほしいと思う。そのような関わりには時間がかかるし労もかかる。子どもの年齢が上がれば上がるほど知恵もついて複雑化し、より時間がかかってくるだろう。本来したかったことができなくなることもあれば、夕食の時間を押すこともある。それでも子どものために対峙していけるかということが大切。いつの間にか時間や労を惜しんで大切な取り組みをごまかしてしまう言い訳を作り出すのではなく、霊的な緊張と神の存在を確かにする営みを子どもにきちんと迫ってその時間を持っていく必要がある。ただ穏やかに過ごし人間的に赦すことを愛とするのではなく、きちんと罪を取り扱って神の贖罪としてのキリストの十字架を子供の成長と共に教えていくことこそが本当の親の愛である。なお取り組んでいってもらいたい。


Q:次男からのふとした質問だったのですが、「なんで神様は私たちの怖がる生き物を造ったの」と聞かれ、その時その質問に答えられませんでした。先生はどう答えますか。

A:まず直接的な質問への回答だが、嫌いなものや怖いものというのはその子の主観で偏っていること、それが存在している意味が確かにあるということを教えていかなければならないのである。それはその子の嫌なものに遭遇した際にどのようにその問題に対峙していくかということにも直結してくる。「なんで嫌なものを神が造られたのか」それは「なんで嫌なことをやらなければならないのか」ということと同じなのである。そこには確かに意味があり、神の御計画がある。しかし、私たちの目には「私たちの嫌なことを神が許される」という部分しか映らない。だからこそ「私に嫌なことをするそんな神はいらない」というような考え方が出てくるのである。あなたがもし今後もそのような質問を子どもたちから受けるならば、そこには神の導きが潜んでいることやあるいはあくまで私たちが望むことは主観的で偏ったものであることを教えていかなければならないのである。しかし幼いころからその価値観をきちんと子どもたちとの交わりの中で構築できるなら、彼らは主観だけで考えることはなく、神の視点というものにも目を留められるようになる。そして神が許されて私たちに降りかかってくる様々な困難や課題というものを正しく自らに必要なものとして受け止めることができるのである。それは私たちを困難の中、苦しみの中にとどめておくものとはならず、神の配剤により私たちに求められているのだと正しく理解することで、自らに変革を求めることや、そのために必要な備え、成長ができるようになるのである。そうでなければ、悲しみや苦しみのみを数え、負の感情にとらわれてしまったり、そこにある神の恵みを見出すことなく、歩みを止めてしまったりするのである。しかし本来必要なのはもちろん悲しみや苦しみを数えることではない。そこからどれだけ神が私たちを助け、導きながら成長や祝福を与えようとしてくださっているかと気づき、感謝し、なおその恵みに生きることである。子どもたちはその両親や家族の信仰を通してまず神を知る。そしてそこから自らの信仰をもって神と交わりを初めていくようになる。だからこそ、あなたの信仰を通し彼らに神の御人格を教え、自分の考えにとらわれた世の中的な生き方ではない信仰者としての霊性や価値観を子どもたちが理解していくことができる場を整えていくことが大切なのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)