同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 天国に行った嬰児はどうなるの? —


 罪を犯すことなく死んだ嬰児は、そのまま天国に迎え入れられると信じられている。それは「嬰児の義」と呼ばれているが、大人のように悔い改めて十字架の贖いを信じる過程を通らなくても、キリストの贖いに与るのであることは言うまでも無い。
 さて「どうなるの?」の意味は「いつまでも赤ちゃんでいるのか」ということである。

 まずその舞台となる、次の世はどのようなものか、私には以下のように聖書が読めるのであるが、読み違えていたり、他の箇所を参照することによって別の解釈ができるところがあったら、指摘して頂きたいと思っている。

 新しい世の到来は人間の救いと似ている。
人の救いは「人が贖われる」ことであり新しい世の到来は「世が贖われる」ことだからである。
 次に来る世でも、今の地球は刷新されはするけれどもそのままある。
ヨハネは
「また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」(黙示録 21:1)
と記したが、それは、
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(コリントⅡ 5:17)
と類似していて、もとの姿は残っている。

 そして、神のみもとから降ってくる新しいエルサレムと、その外の世界と、さばきの火の池がある。
新しいエルサレムが降ってくることは、聖霊が人に降ることに類似している。
「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」(黙示録 21:2)
「みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。」(使徒 10:44)

火の池はどこにあるのか書かれていないので分からない。

 新しいエルサレムは子羊の明かりによって照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない、と書かれているが、太陽が無くなると書かれていないので、それは存続し、エルサレムの外の世界を照らすと考えられる。
エルサレムの近くはエルサレムの光で照らされることも書かれている。

 エルサレムの外の世界には、諸国の民がいて、癒やしの必要な病気もある。
「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。」
(黙示録 22:1)

いのちの水の川は、エゼキエルが見せられた神殿から流れ出る川に似ている。
「彼は私を神殿の入口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、宮の右側の下から流れていた。ついで、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外の門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。・・・川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」(エゼキエル書 47:1-12)

 エルサレムの内の幸いに比べると外の世界は、歯ぎしりして悔しがるほどの差がある。
「役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ 25:30)
「自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。犬ども、魔術を行う者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行う者はみな、外に出される。」(黙示録 22:14-15)

いのちの水の川の両岸にあるいのちの木は毎月実をつける。
「毎月」と書かれているので、時間があり、年月日がある。

そこに、取り上げたテーマである「天国に行った嬰児はどうなるのか」に対する答えがある。
地上の体が成長するのと同様に、栄化された体も成長するのである。

 私は以前は、イエスが傷跡を弟子たちに見せられたので、世を去ったままの姿でいるのだと思っていた。
また、「天国に行っても人は成長し続けるのである」という主張を聞いてもそれは霊的なことだけだと思っていた。
しかし、人は霊、たましい、体から成っているもの、それらが有機的に一体となっているものであって、すべてが成長するのであると信じるようになった。
霊、たましい、体が一体であることは、ひとが三位一体の神をかたどって造られたものだからである。
天の体について、癒えることも記されている。
長い年月がたったら、老人になってしまうではないか、と思うであろうが、天の体は何歳になっても衰えることがないのである。

結論は、
「赤ちゃんも天国で成長して大人になる。」
である。