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キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰 —

「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:15-17)

 「聖書信仰」が叫ばれてから、ずいぶん時が経ったように感じます。信仰の初心者の中には聖書信仰ということばは聞くけれども中身を学んだことがない方もおられるでしょう。それで少し解説をしておこうと思います。

 聖書信仰を以下の視点で考察します。
 1.聖書は神の書であること
 2.聖書は真理の基準であること
 3.聖書は人間の行いの規範であること
この問題がキリスト教の世界で叫ばれるようになった歴史的背景は、その必要性を示すものではありますが、今回はそれに触れないことにします。

1.聖書は神の書であること
   これは、聖書信仰を信じる人々の間では、「聖書はすべて、神の霊感によるもの」として、広く信じられています。
 聖書の記者が自分の思いつくままに書いたもの、神が直接指示された預言、詩や伝承の編纂など様々なものの集合ですが、聖霊が聖書記者を通して、神のことばを書かせなさったと信じられています。書き上げられた書そのものが、後から編纂し直された部分もあります。
最初に書かれた聖書のみが誤りない神のことばであると信じる人々もいますが、最初に書かれたものは朽ちてしまって、代わりに多くの写本が残されていますが、それらが全部は一致しないのです。聖書を信じる立場から、ベンゲルはじめ多くの聖書学者たちが比較研究をし、聖書の復元に努力を払ってきましたが、絶対といえるものはありません。しかし、編纂にも、私たちが直接手にする翻訳された聖書にも神は働かれて、それらをご自分の書であると認めておられるのです。

2.聖書は真理の基準であること
 「聖書信仰」の原則は、「書かれている文字通りに受け取る」ことにあります。
 文字通りといいましても、聖書の記述には、「詩的表現」「比喩的表現」などが含まれているため、読み分ける必要があります。例えば、
「それは主が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。」(出エジプト記 20:11)
これは詩でも比喩でもありませんから、そのまま文字通りに、神が六日間で天地を創造されたと受け取らなければなりません。天地の創造は神の奇跡であって、科学的見地で論ずべきものではありません。

 ヒゼキヤが病気になったとき、神に願っていのちを長らえましたが、神は彼を癒やす約束を奇跡をもって保証されました。
「ヒゼキヤはイザヤに言った。「主が私をいやしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか。」イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。」
 日時計の陰が戻ったということは、地球が逆転したことであって、常識を持ち込んだらあり得ないできごとです。
けれどもこの記事は、比喩だとか、詩的表現として書かれたものではありませんから、文字通りに読む必要があります。
「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と信じている皆さんは、神が全能であることを信じなければなりません。

 このような事例は聖書にたくさんあります。
それらを信じないで、イエスのなされた多くの奇跡は信じられるのでしょうか。
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」
イエスの奇跡を信じないひとが、イエスの救いを受けることができるのでしょうか。

 聖書を信じることを妨げるのは
・科学技術上の見解
・世の常識
・宗教上の曲解
・哲学的見地で聖書にないことを持ち込む
・不信仰
の目をもって聖書を判断することにあります。逆であって、聖書によって物事を判断するのです。

3.聖書は人間の行いの規範であること
「聖書は、・・教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」
この有益に与ることができるのは、聖書に従って生きる人だけです。
 イエスの言われたことはこうでした。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ 13:34)
これは、たとえ十分にできなくても、そうだと受け入れられるでしょう。

 聖書のことば、ひとつひとつを、恐れを持って実行することを心がける必要があります。「不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。」(コリントⅠ 6:-10)
不品行、偶像礼拝、姦淫、男色、盗みなら異論無く避けるでしょうが、飲酒も同列であることは、目にとまらないかも知れません。
 「酒に酔う者は・・神の国を相続できない」ことが忘れられているように思えます。この問題について、
http://dorosya.net/036/seiken.html
「飲酒に関する聖書の教え」を参照下してさい。