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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-111  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 5章

  サウルの王家からダビデ王家へと引き継がれ、イスラエル全土がそれに順応し始めた時期の話である。ここにはダビデの人生における目標の終着点と言えるだろう出来事が書かれている。人は死ぬまで成長し続け死がゴールであるという人もいるが、ダビデにとってのゴールとはこの目標の達成であった。そしてこの箇所においてそれが達成されたのである。それが分かるのは大きな四つの出来事による。
一つ目はユダ以外の全長老が集いダビデに油を注いだことだ。前の王であるサウルと比べるならこのようにイスラエルの民全体が一致をしていたという様子は見られない。
二つ目はエルサレムを首都としてそこに王宮を建てたことである。不思議なように神はそのためにツロの王ヒラムを備えてくださった。このことにおいてもサウルと比べるなら、彼も宮殿を建てたがそのための資金を民には求めなかった。そのようなとこからも初代の王としていかに民に愛されるような資質を持っていたかが分かる。民が王を嫌うのは税を集めるからである。軍をつくるにしても宮を建てるにしてもそれらは全て民の税からなる。だからこそその税を民から集めず、自らの資金で宮を立てたサウルは民から好まれる王だったのである。その点から考えるなら彼は優れた王だっただろう。しかし神の民であるイスラエルの王として立つとき本当に必要だったことは、民の御機嫌を取ることではなく神の御心は何かを常に伺い、それに従って歩むことだった。彼は確かに民から好まれた。だからこそ、神よりも民をとってしまったことで、その道からそれてしまったのである。
三つ目はエルサレムに入ってからもダビデ家が大きくなったことだ。これは神の豊かな祝福であると言える。しかしこれはきちんと統率が取れていればの話だ。ダビデの後の事を見るといかに家族の事で多くの問題があるかが分かる。私たちが気を付けなければならないことは神からの祝福をどう自分のものとして捕えていくかである。ダビデのように祝福が与えられても、それを祝福として活かせないのならば神の業はならない。私たちのもとに与えられた祝福を逃さず、確かに運用して自分の周りの者たちにも祝福が分け与えられて初めて、神の業がなるのである。だからこそ、自らの祝福を捕らえ続け、覚え、数えていかなければならないのである。
四つ目は対ペリシテとの戦いに勝利したことだ。士師記ではそれぞれで統率がとれていないイスラエルの民だったが、ペリシテの力が増し加わったことで、イスラエルの民も一つとなって戦おうとした。だからこそその民を率いていくものとして王が立てられたのである。しかし、サウルはペリシテとの戦いで命を落とした。最初の目的を達成することなくサウルは失脚しなければならなかったのだ。そこからイスラエルを勝利に導いたのが、ダビデであった。
これらのことを踏まえてこのサムエル記第二の五章で何が語られているのだろうか。ダビデが、本当の意味でイスラエルの王となったということだ。ここまでの学びを振り返った時、神はダビデと共にいて必要な時に必要なものは備えておいてくださっていたことが分かる。今、礼拝で語っているところだが、パウロは聖霊に止められ望んだ道には導かれなかった。そのうえ、かえって遠回りのように思える事柄が多くある道を通らされた。しかし、その中でも神は共にあって彼を祝福の道へと導いてくださった。ダビデも同じである。一見目的から遠く離れているように見える道のりだったことは事実である。しかし、神はきちんと備えていてくださり、こうして彼をイスラエルの王として導かれていた。ダビデの物語は王になって終わるのではなく、この後王としてのどのように歩んでいたかという話が続いていく。彼は過ちを犯すときも確かにあった。しかし、彼は神の御心に生き続け、離れたならば、また距離を縮め、神と共にあろうとした。彼の歩む道はそれることがあっても最後には元の道に戻され、神によって開かれていったのである。故に、その歩みが止まることはなかった。なお私たちも神の御心に生き続け、この道に自らを歩ませていきたく願う。


   Q:人を動かすということの難しさを感じています。必要なことを伝えているつもりでも、うまく伝わっていなかったりすることがあります。そうしたとき、自分はどのように動くべきか、信仰のない人にどのようにアプローチをかけるべきでしょうか。

A:私が大切だと思うのは、観察である。一人一人をよく分析して、相手に働きかけ、どのようなリアクションが返ってくるかを見ていく必要があると感じる。そして、もう少し、長いスパンで相手との関わりを考えていく必要があると感じる。ただ時間切れ、つまりあなたが人との関係を立て直すことで果たしたい目的を成すことができないということもあるかもしれないし、失敗も経験することもあるかもしれない。しかし、そのようなことでも経験するかしないかは大きい。なぜなら、その中で得た経験があるからこそ、愛する者たちに教えていくことや、その情報を提供できるものとなるからである。知識で得られるものもあるが、そのような親が経験したことはまた別格の情報となるのである。今語ったようなことは一面人が嫌がることである。失敗の経験なんてしたくないのが普通である。しかしそのような情報は得られるか、得られないかで同じ年齢の人の中で大きな差になる。失敗の経験はそこから成功に続くきっかけを見つける材料になるし、同じ失敗を繰り返さないようにと注意する点になる。本来ならば自分で経験してやっと得られる情報を他者から受け継ぐ形で経験しなくても得ることができるのだ。これが大きなハンデになる。私はこれが、親が残す最大の財産ともいえるだろうと感じる。知識なら学校や本、今ならネットにも多く転がっている。しかし、本当に自分の人生をかけなければならないようなときに、そんな情報に信頼を置けるだろうか。出所に信頼をおけないようなものが役に立つだろうか。そのような時に役に立つのは目の前の信頼できる人から聞くその人の経験をもとにした情報なのである。
また親が得た感覚は長時間共に過ごす子どもたちの中に危険因子を見つけた時に注意していくものとなりやすい。例えば、言葉遣い一つとっても、普段から気を付けている家庭では日常的に出る言葉から正しく用いられているだろう。しかし、家庭で何も気を付けていないと、敬語の使い方や、目上の人との話し方、使っていい言葉とあまりよくない言葉なども統率されていない。それは親自身がどれだけその問題を大切に扱ったかという経験に基づく。社会に出てから注意されて初めて気を付けるようになった人はそれを身に着けるまでの苦労の経験がある。そして、ある一定期間、身につくまで気を付けて緊張感をもって生活するだろう。だからこそ、そのようなことに敏感になるのだ。そして、そのような経験をした人は言葉遣いに気を付け続ける上に、子どもにもその大切さを含め、早いうちから教えることができるのである。もちろん親からそのように教わったものは早いうちに恩恵を受けることになる。なぜなら周りが教わり始めたころにはすでに身についているからである。だからこそ、このような経験をしていくことは大変重要なのである。あなたが今行っていることも、もしかしたら直接的には間に合わないかもしれない。しかし、その経験は子どもたちに確かに残るものになるのである。


Q:今日開かれた聖書のところで、ダビデが経験した4つの出来事が取り上げられましたが、この4つのことがダビデにとっての目的だったのですか。

A:この4つの出来事で象徴される全イスラエルの王になることが目的だったのだ。彼が若い時に神から油注がれ、イスラエルの王とすることが語られた。だからこそこれが彼にとっての目的であり、これを成すための歩みだったのだ。そして実際ことが成ったということをこの四つの出来事を通してサムエル記の記者は示そうとしたのである。しかし、ここまで読んできて分かるように、決してまっすぐにその道を歩んできたわけではない。時には神の道から大きくそれた時もあったのだ。しかし、神がダビデの道を整え、違う方を向いているダビデの向きを変えさせ、忍耐強く取り組んでくださった。そしてダビデ自身も信仰をもって、神と交わりを続け、その言葉に従い続けた。だからこそ、このことが実現したのである。
礼拝で語ったことだが、ピリピの教会とパウロの関係が人格的交わりによってなったということも同じなのである。これは大変抽象的な事柄であるが、人格と人格が愛をもって交わりを持つとき、私たちは相手の弱さ、足りなさを知ることがある。私たちはその中で、ただ相手の弱さや足りなさを指摘するのではなく、キリストが私たちにしてくださったように相手を愛し、交わり、向き合うことが必要なのである。そうしていく中で、短所を補い合うことや長所を伸ばして物事を進めていくことができるのである。
話をダビデの方に戻すが、神がそれほどまでしてなぜダビデと関わりを持たれたのかというところに注目する。それは、ダビデとの交わりを通して、ご自身を広く表すためである。神はご自身を隠されている。わかりやすい形で私たちの前に現れるということはない。だからこそ、このように人を通して神の器を通して表されるのである。私たちはこの神の器となる場合がある。私たちが神の栄光を表すのである。それを神は心から喜ばれる。しかし、時に私たちは神を表そうとして全く見当違いのことをしている場合もある。気を付けていかなければならないのである。神は聖きを行われる方であり、私たちとその意味で一線を画す方である。しかし、神は愛をもって私たちと交わることを選ばれた。故に、私たちは罪によって裁かれてしまうのではなくイエス・キリストを信じることでそこから救われることができるようになったのである。神の一方的な憐れみである。神が私たちを惜しまれたのだ。だからこそ、私たちも神のその愛に応え、その中を生き抜いていくことが求められるのである。そして、そのことをなお自らで終わらせるのではなく愛するもの、自らの子どもたちにも教え継承していくことが大切なのである。


Q:以前の説教の中で変革は愛に導かれていくと語られたのですが、変革とはどのような面において与えられるのですか。

A:変革はすべての部分について起こる。例えば、知識。本来知っていなければならないところなどを変革によって知ることで、真理を得ることができる。つまり今まで認識していない部分を知ることができるということだ。変革とは偏ったところに与えられるものである。知識が興味関心によって偏っていたものが、変革によって必要なところを認識できるようになるのである。そのような変革はキリストの愛を行使しようとしたときに偏ったままではいられないからこそ起こるのである。愛するというのはどんな方法でもいいわけではない。偏りや、誤りがあってはいけないのである。相手を思っていても方法が間違っていれば相手にも悪影響を及ぼすのである。だからこそ、私たちは愛するために必要な知識を蓄え、行使するための知恵を身に着けるのである。そこに変革が与えられる。そしてそのようにして愛を運用していくならば、愛は増し加えられていく。つまり逆に言うならば、うまく用いることができなければ意味なく終わってしまう。例えば時間である。本来自分のために使うものであるが愛する者のために時間を使ってあげると、逆に相手の方が意欲的にその時間を用いてくれる。
もちろん簡単に動くものではないが、そうしていくことで本来動かない者が動くようになることもまた真実である。これこそ変革によって導かれるものである。まず人間は基本的に自分の時間は自分のためにのみ使いたがる。しかし、ただ自分の利益に使っているのではなく他者のために使うことが愛であると学んだとき、実行しようと選択することができる。ここから変革が始まる。愛する者のために時間を使う際に相手の要求にこたえることやそのタイミング、選択の知恵を必要としてそのスキルを身につける。そうなれば、実際その通り実行する。この時点で変革する前と比べると、時間を隣人のために使う方法を身に着けることができたことになる。もちろん時間を相手のために使うと愛によって選択しなければ、このことははじめから起こらない。相手のために使おうと選択したから、その方法を考え知恵を得ようとして実際に学んで実行に移すことができる。愛を運用しようとするとき私たちにはこうして変革が与えられる。またこのようにして変革することがほかのものにも影響し、祝福へと変わる。相手に命令したり、無理強いしたりしていやいや動かすのではなく、相手に愛された自覚を持たせるからこそ自主的に動くという祝福に変わるのである。あなたもあなた自身の変革を経験してそれがいかに周りに影響を与えるか知っただろう。神は私たちに変革することを求められる。なぜなら、それによって私たち自身が祝福されるからである。しかし、今までしていないことをしていくこと、変革していくことは難しい。他人から言われても、その意義を見出せず取り組めないこともあるだろう。しかし、私たちは信仰によって自らを変革していくことを選ぶ。神が求められるからだ。だからこそ、信じてことを行う者には変革によって神から祝福が与えられる。
子どもに教えるときもそのほうがいい。子どもの御機嫌取りをしてやらせたり、逆に叱ることの恐怖でやらせたりすることは効果が薄い。むしろ、自分が経験したこととして愛を運用することや、変革することがいかに重要なのかを実践と共に教えていけばいいのである。子どもは親に言われた通りに初めは納得いかないと思いながら行っているかもしれない。ただ、言われた通りにしていくことで得られるものの大きさを知れば、そこで得られる多くの利益を見るとすぐに食らいついてくるようになる。従っていれば祝福が与えられるからである。そして同時に、自分が親によって愛されていることも理解し、愛するようにもなり、正しい道へと導くことができるのである。  


Q:同労者の原稿でも、証に立つときでも「いい人」になるのではなく、ありのままの自分で行いなさいとよく語られますが、具体的にどういうことですか。

A:私はよくまな板に乗りなさいというが、包み隠さず自らの実態をさらし、その中でどのように神が働かれたかや、変革、祝福が与えられたのかを語らなければならないということである。例えば今日開かれたところでも、ダビデが「はい。王になりました」と書いたのではなく、細かくどのようなことが起こったのか、そこにどのように神が働かれたのかがあげられている。これによって大切なことが読むものの中で浮き彫りになるように書いているのである。私たちも、証しなどをする際には神の姿を現すために、ある程度包み隠さず具体的に自らの姿を語らなければならないのである。もちろん他人のことや周りの人が迷惑をこうむること、傷つくことを書くことははばからなければならないが、そうでない範囲においては、自分をさらして証しするとよいのではないだろうか。


Q:説教の中で改ざんするということとその怖さを語っておられましたが、改ざんというところをもう少し、教えていただきたいのですが、それは記憶的なもの、過去のこと、感情の塗り替えなどなのでしょうか。

A:私が語った改ざんとは現在するもののことである。私たちの現在の姿を正しく見るのではなく、実態をよいと偽ってしまうことである。本来収支とは赤字は赤字、黒字なら黒字と出さなければならない。しかし、それを改ざんして、赤字なのに黒字とごまかしてしまうことを語ったのである。つまり先ほど語った「いい人」のことと同じで、私たちの実態ではなく、周りに良く見えるように繕うことが改ざんなのである。この改ざんが私たちの中に起こるとどうなるのか。本来マイナスが改ざんされずにマイナスという形で私たちの目の前に現れたなら、私たちはそれがプラスになる方法を考える必要がある。しかし、改ざんしごまかしてしまえば、マイナスという結果が出なければ、改善もしないしそれを考えるということすらしないのである。信仰者の中にはそのマイナスを神が祝福によって直してくれるだろうと勘違いする人がいる。しかし、本来の神との交わりの中で与えられる祝福とは私たちのそのような「現実に向き合えない、改ざんしてしまう所」を信仰によって改善し、現実の自らに向き合わせることを可能にするものである。そしてその結果、現実の自分の負債に気付き、マイナスをプラスにするために自らを変革する必要があると取り組むことができるようにするものなのである。そしてそれに助けが必要ならば、神は会社が利益を出すために雇う会計士のように、私たちの信仰生活を管理し、マイナスをプラスに変えるアドバイスをする牧師などの存在を与えてくださるのである。
また私たちがともにかかわるこの教会という場も改ざんを防ぐために必要である。本来人はそのようなマイナスの姿、負債がある姿を他人に見せたがらない。だから、良く見せ、偽って関わり合いを持つものである。しかし、教会の中の兄弟姉妹との交わりはそのようなものではない。信仰者同士の交わりはそのように偽った姿ではなく、本来の自分をさらけ出すような愛ある関係を築くことで変革のためにお互いを助け合ったり、注意したり、教え合ったりできるのである。
パウロは書いたピリピ人への手紙2章において、彼はキリストの謙遜の姿を上げている。それはピリピの教会にキリストの謙遜と愛の姿を語ることで、そのキリストの愛に生きる私たちも同じように信仰の仲間を信頼し、尊敬し、自らを遜らせて生きようと投げかけているのである。私たちは収支が赤になっていたものを互いに信頼し、助け合うことで黒に変えられる。そうすることによっていよいよ福音が増し加えられていくのである。この関係は追い込まれて、どうしようもない時に近くにいる人に頼るというようなかりそめのものではない。日ごろから互いに助け合い、教え合い、声を掛け合うことで成り立っていくものであり、その基盤にはキリストの愛がある。私たちの教会でも、なおそのような関係を築き上げ、これからより取り組んでいきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会会員)