同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖化と教えの関係 —


 イエス・キリストの弟子たちは、約束されたとおり聖霊を受けました。彼らはその経験をし、隣人に聖霊を受けさせることができましたが、その意味合いを知るためにはパウロの解説を待たなければなりませんでした。私たちが救われたとき、その恵みに与りますが、それがどういうものであるか、理解するのに時間を要しますし、先に救われた方々に教えていただくことが必要です。全き聖潔に与るときも同様で、まず聖霊に満たされたことだけ理解します。それから後になってその意味合いを理解できるようになります。
 弟子たちがはじめて聖霊を受けたいきさつが記されている聖書の箇所をもういちど読んでみましょう。
 イエスはオリーブ山から昇天されましたが、その前に、「父の約束」である聖霊を受けるまで待ちなさいと命令されました。
弟子たちは集まってエルサレムで、それを待ちました。そして約束の通り彼らに聖霊が注がれました。

「イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」」(使徒の働き 1:3-5)
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていた・・」 (使徒の働き 1:9-15)
「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」 (使徒の働き 2:1-4)

 彼らは「祈った」としか記されていませんが、イエスの復活されたことを知っても、早くも、挫折を感じていました。しかし、聖霊に満たされた時、彼らは「御霊と力に満たされた人」になりました。
 先に述べましたように、救われたということがどういう内容をもっているのか知らなくても確かに救われているように、聖霊に満たされたかれらは、全き聖潔に与ったひとになりました。それがどういうことか自分で分からなくてもたしかに潔められていました。
 きよめの教えを聞いて、信じて、きよめられるという順は踏みませんでした。彼らはイエスの約束が成就することを待ったのです。
 救われるとき、どういうことが自分の身に起きたのか分からなくても、罪の赦しと新生の恵みに与ります。同様に、聖霊を受けた彼らは、「キリストと共に死にキリストと共に生きる人」「罪の性質が聖絶され(心を聖められ)て聖霊の宮となって生きる人」となりました。

 ペンテコステの記事には書かれていない「キリストと共に死ぬ」ということが非常に大切なのです。書かれていないけれども聖書の他の記事から、そのときかれらの心の内にそのみ業がなされたことは明らかです。
 そのとき今私たちを取り巻いている教派はありませんでした。
 ペテロはペンテコステの恵みを受けた人々の先頭に立ちました。彼がきよめられた器になったことは疑う余地がありません。しかし後に、彼の信じる教えについてパウロに叱責されたことがありました。

「ところが、ケパがアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。」(ガラテヤ 2:7-13)

 ここで考えたいことは、ペテロが割礼派の人々を恐れ、誤った教えに導かれてしまいました。それで異邦人から離れたことは、彼の品性に問題が生じたのでしょうか。そして彼の潔めに問題が生じたのでしょうか。
品性についてはゆらぎを感じます。異邦人への愛はどうなったのでしょうか。「愛は恐れません。」という点からはどうでしょうか。
私は、彼の「潔め」が失われたとは思いません。聖霊は彼のうちに住み続けたと信じます。