同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-7 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 <教え>の中から特に「神観」を取りあげて学びました。聖書の教えはキリスト教信仰の内容はもとより、世の多くのことを含んでいますから、信仰をもってそれを把握させて頂きましょう。
次のテーマとして、聖書信仰という立場から<戒め>を考察します。

「主はイサクに現れて仰せられた。「・・・わたしはあなたとともにいて、あなたを祝福しよう。・・・こうして地のすべての国々は、あなたの子孫によって祝福される。これはアブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めと命令とおきてとおしえを守ったからである。」」(創世記 26:2-5)

アブラハムは「神を信じた」ことだけが着目されがちですが、彼に対する神の評価は、「戒めと命令とおきてとおしえを守った」です。
 私たちも神を信じ、神のことばである聖書を信じるというなら、アブラハムに倣って、その「戒め」を守らなければなりません。

 戒めを守るとは「行う」ことです。皆さんは信仰生活を続けるなかで神に「戒められた」経験があるでしょうか。たしかに教会の働き人の皆さんは、直接神にそれをして頂かなければなりませんが、平信徒の皆さんは直接神によるのでなく、教会の働き人たちに「戒められる」ことでしょう。また子どもは一定の年齢になるまで両親によって戒められることでしょう。その戒められるということについて、直接神が戒められるのであれば従うが、人を介してではいやだというのは「わがまま」な信仰であって、神に喜ばれるものではありません。自分で拒否してしまうことも含めて、もしその経験がないなら、「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか。もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。」(ヘブル12:7-8)と書かれているように、「ほんとうの神の子」ではないと宣告されます。
 「信仰によって」ということを大切にしすぎて「行う、戒めを守る」ことを捨てませんように。行いたくないのは、神にも、しかるべき人にも「従いたくない」からです。

 ところで、「戒め」とは何でしょうか。
ことばの意味を辞書でみると、
・過ちに陥らないように前もって警告すること
・行動を禁止すること
・自由がきかないように拘束したり、閉じ込めたりすること
・拘束する道具
・用心すること
などと書かれています。

 私たちに聖書が示している戒めについて考えましょう。まずヘブル人への手紙の記者はこう言います。

「肉についての戒めである律法」(ヘブル 7:16)これは、体のこと、真の戒めではないものであって、コロサイ人への手紙2章にその具体例が書かれています。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。・・・もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。」(コロサイ 2:16-23)

そして続く3章に、私たちが守らなければならない真の戒めが書かれています。

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。 私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。このようなことのために、神の怒りが下るのです。あなたがたも、以前、そのようなものの中に生きていたときは、そのような歩み方をしていました。しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。 互いに偽りを言ってはいけません。」(コロサイ 3:1-9)