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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-116  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 10章

   先月はメフィボシェテの存在に対するダビデの憐れみを取り上げた。ダビデが王となり、王国が整って行く中にあって彼はまた、それだけでなく神の御心と結びつき、一つ一つのことが行われる中で神が主権者であることを表していったのである。聖書にどのようなメッセージがあり、書かれているのかということを読み取ろうとするならばいろいろなものが見えてくる。聖書は文学的に、また歴史的に整い、その意思が明記されている。神が人間を通し、その霊感によって書かれたからである。作者がそれぞれ自分の好みのところを書いたわけではないのである。
もともと聖書は書簡ごと一つの巻物に書かれていた。それに区切りをつけ、章というものができた。そのため、どのようにして区切りが設けられているのかということは分からない。本来は一つの流れで書かれたものである。聖書によっては「主」という文字が太文字で強調されているものがある。それは写本の際にわざわざ筆を改めて書かれていたということに基づき強調した故である。それほどまで考えられ、多く人々の手に渡るようになった書物である。私たちはこれをよくよく読み解いていかなければならない。自分の都合の良いように湾曲して解釈することはもちろん誤りである。だからこそ、それを自分で読み解こうと取り組んでいくことはもちろん、召されたものとして語るものの言葉を聞くことが求められるのである。
これまではダビデの王国が安定してきている中で自分の地位を含め、神がどのような王国を建てあげようとしているのかということが表されているところを取り上げた。そこには神が与えてくださった多くの祝福についても語られている。メフィボシェテのことも、イスラエルのことも神の代務者としてダビデが彼らを祝福しようとしたのである。9章まではその祝福も民にのみ与えられていた。それが対外的に行われるようになったのが10章である。この10章は様々なとらえ方がある。聖書には書かれていないが、ダビデは以前サウルに追われていた時にナハシュという王との関わりを持っていたのだろうとするとらえ方もある。なんにしても、この10章からの流れが11章にもまたつながっていくのである。すなわち、ダビデが絶頂期を迎え、神の代務者として行動を起こしていく11章へと入っていくのだ。そのようなものを含みながら、このアモン人の王ハヌンとの関わりを持とうとしてきているダビデであったが、対するハヌンの行動は周りにそそのかされて、ダビデの家来を辱めて帰らせるということをしたのだ。若い王。王の権威を乱用し、自分の強さを表すようなこととして相手を辱めるということを彼は行った。このハヌンはそのようなことを助言するようなものばかりを近くに置いていたのだ。自分の周りを自分の意見を通せるようなものたちで固め、それ以外の考えを持つようなものを排除していくと、このようになってしまうのである。ダビデは本来、ダビデによってイスラエルに祝福が表されたように、アモン人に対しても同じようにしようと思ったのだ。しかし、その道は絶たれてしまった。アモン人が戦いの中で力を堅持しようとして、彼の祝福を受け取らなかったのである。
私たちは神を信じることを長く続けている。それは単発のその時ばかりの関係性ではない。一連の人生の流れの中で築き上げているものである。その中で神は私たちを扱って、整えてくださる。私たちは自らを守り、愛するものを守り、神の真実の中で生かされている。このことを大切に握りしめていくことが重要である。そして、神の愛を自らが受けるだけでなく、周りの者にも分け与えながら、生きていくことが大切なのである。真実をもって私たちは神に生かされている。だからこそ、この愛を私たちの真実を通して明らかにさせていただきたく願う。


Q:ダビデがハヌンに真実を尽くそうとして行ったことが、裏目に出てしまったのですが、ダビデはそのことが神から出たことだろうと自分のやるべきことは何だろうと行動を起こしました。私たちの生活の中でもそのようなことが起こったとき、自分の在り方を見直したり、ダビデと同じようにすることが良いのでしょうか。

A:どっちかではないだろう。両方とも大切だと考える。だからこそ、私たちもその中で生きているということを大切にしていくことが必要だろう。そのようなことが行われているとき人はすぐに感情的になりやすい。せっかくやったのに、なんで受け取ってくれないのということや、なんでこんなことになってしまったのかと考える。人間はその感情の高まりで生きているわけではなく、少し冷静になったとき、余裕ができた時にそれらのことを考えることができる。そのあとに私たちは考える時間を持つ。それによって私たちの中にその経験を蓄積していくのである。失敗も大切な蓄積である。神は全てのことに関与されており、私たちにそれなくして届くものはないからである。ただ私たちがそれをどのように受け止め、理解していくことが必要なのである。それが私たちの側で許されていることであり、神に問うことができる問題なのである。全てのことに神は関与される。真実を行おうとしてうまく行かなくても、積極的に行おうとしたことは良い。相手に通じなくても変わりなく挑戦し続けるべきである。神の前に私たちが真実に行おうとしたことを覚えていてくださる。私たち自身もそれらを覚えながら、そこから得たものを次に生かしたり、積極的に行い続けることで相手に受け入れやすい形で真実な働きを捧げていくことができるのである。すぐには変わらないかもしれないが、確かに5年10年で変わっていくものとなるだろう。
ダビデは、ハヌンに対して愚かだなと思ったかもしれない。彼が王子であった時代にどれだけ父親が行っていたことを注意していたか。彼がそのように次に受け継ぐものとして、日々理解し、学んで、行っていなければ、これらのことはできない。それは譲る方も譲られる方も行っていかなければならない準備である。注意してこれらのことは行っていかなければならないのである。そうでなければ、「ハイ貴方の番です」と言われたときにすぐさまこの出来事に当たっていくことはできないのである。
サウルが初めに戦った王がナハシュである。しかし、その後のダビデとの関係が良好だったとすれば、次に王となるダビデが、自らを売り込んでいったとも考えられる。サウルは嫌いだが、ダビデにはいいだろうということもあったのではないか。意外と私たちの人間関係には歴史がある。そこに色々な要素があり、反面教師で覚えたことも生きてくる。私たちが真実に取り組んだところには必ず何らかの形で神の祝福が働かれるのだ。


Q:ダビデがアモン人の戦いに行かなかったのはどのような意味があるのでしょうか。

A:彼は挫かれてしまったのだ。ダビデはアモン人との関係を良好に保ちたかった。メフィボシェテと同じように祝福や憐れみを施して、いい国家間の関係をもって彼の実績を上げたいと願っていたのだろう。しかし、それが裏目に出てしまったのだ。ここまでダビデは走り続けていた。しかし、彼はこの問題を前に気が落ち着かなくなってしまったのだろう。神に対する不信とまではいわないが、そのまま通り過ぎられないような問題として彼の心に残ってしまったのだ。私たちはそのような感情を抱くと、相手に対して普通に接することができなくなることがあるだろう。今まであいさつができていたのになぜかできなくなるということもあるだろう。そのように彼もなってしまったのだ。ダビデはアラムの時には出ていき、勝利を収めている。しかし、ことアモンのことになると、彼はそれができなかった。だからこそ、彼はこの直前で王宮に残ることを決め、戦いに出ていかなかったのだ。私たちはあのダビデがなぜと理由を探りがちである。しかしダビデも人に過ぎないことを忘れてはならない。人の力に注目してしまうとそのようになってしまう。本来私たちがそのようのことを成していけるのは神の恵みと導きの中に歩んでいるからである。神がそれらをさせてくださるのである。このような行動には神からの応答が必ず帰ってくる。実際ダビデにも帰ってきている。それは一見、私たちが無知だったから、能力が足らなかったからこのようなことがおきたのだろうと思わせるに十分な出来事である。そのような経験を持ち続け、そこに私たちが知るべき何かが与えられることを願っているのである。それが信仰者に対し、神が与えてくださるものなのである。これを通して、私たちは確実に相手に真実を尽くしていくこと、その手法を学ぶことを知り、実行していくことができるようになるのである。


Q:先日の礼拝の時に伝道者の書7章の18節が開かれ「もう一つをつかみ、手放さなければよい」との聖言から、一方が「救いの喜び」、もう一方は「己の十字架を負う苦悩」であると先生は語られました。これについてもう少し詳しくお聞きしたいです。

A:伝道者の書は知恵の書といわれている。私たちはよく「良すぎても悪すぎてもいけない。両方バランスよく持っていくことがいい」と語られているように読んでしまう。しかし、それは一般的世の中のとらえ方である。私たちは生きて働いておられる神の御性質を見る中で、そのような神の正しさや愛、聖きなどの性質を持ってみたいと思っている。しかし、先ほど語ったように真実を行おうとしても、うまくいかないということもある。ここからわかる神が私たちに導いておられることを考えなければならない。私たちが物事を行う時には「思い通りになったという喜びの時」と反対に「なぜこのようなことが起こるのだろうかという苦しみ」に出会うことがある。このようなことが起こると、良いことが起こることは神が私を愛しているからで、逆に悪いことが起こるということは神が私を愛していないからなのだと考えてしまう人がいる。しかし、本来は、神を中心に置いて、善悪ではなく、神からくるものが恵みであり祝福なのである。私たちは私たちの視点をもって悪や、害、苦しみというものを決めてしまう。しかし、本来は与えられるものがたとえ私たちの苦しみにつながろうとも、すべて祝福なのである。だからこそ、それが手放してはいけない片一方であり、もう片一方は、神から与えられる直接的な愛や恵みで。私たちの視点においても与えられて嬉しいもの、喜ばしいものなのである。
伝道者の書で最後に「空は空。すべては空」と語っているがそれはどのような意味かというと「人間が神という存在なく生きること、行うことは全てむなしい」ということである。だからこそ、この伝道者の書では神を真ん中において、私たちがどのように生きるべきなのかということが語られているのである。だからこそ私はこの持っていなければいけない二つのことを「神の愛」と「キリストの十字架」と語ったのである。キリストは実際「己の十字架を負って私についてきなさい」と言われている。十字架とはイエスキリストが三度祈るほどの苦しみである。大変な苦しみであるだろう。私たちもその苦しみを味わうというのである。しかし、もし、あなたが何らかの苦しみを抱えていた時、キリストの十字架と比較して、これはそれに値しないと考えることはない。例えば子どもに馬鹿にされることがあったとしよう。それを心から悲しんだとき、それが私たちの十字架である。人に図り切れないことでいいのだ。誰にとっても十字架の苦しみである必要はない。あなた自身の話としてとらえていいのである。ただ、それを乗り越えても貴方はその子どもを愛し、祈り、対峙し、導かなければならない。しかし、それをうやむやにし、被害者意識を持ち続けていることなどは良くない。イエスキリストが十字架を負いなさいというのは、そのようなことを自分で負いながら、それを救いや、喜び、祝福につなげていくことを願っておられるからなのである。確かにそれは苦しい道のりである。しかし私たちがそこを生きるとき、イエスキリストの後を追える喜びが必ずあり、神は大いに私たちの姿を喜んで、祝福してくださるのだ。


Q:自分にとっての十字架を負うということが語られましたが、私にとっての十字架とは何でしょうか。

A:たいてい嫌なことを積極的に行っていくことがそれにあたる。もちろん十字架には意義がある。ただ負わされているものではないと私は捉えた。私には十字架を負おうと意思したときがある。私は様々なことに5年10年を待つことは当たり前だと思って取り組んでいる。一つのことをどうにかしたいと思ったら、粛々とそれだけの年数をかけ取り組むだけの意思がある。そして神によってそれがどのようになされるかということを見させていただこうと思い取り組んでいる。そのなかで多くのものが変えられ、神によって祝福に導かれた。もちろん未だに待ち続けている事柄もある。年を取ってくると自分にとって面倒なこと、なんでこんなことしなければならないのかと思えるようなことは自分の手元に置いて背負っていくか、それとも外していくかということを選べるようになる。若いうちは選択できないことがほとんどで、強制的に課せられていることも多いだろうが年を取ると自由になってくる。それは勉強や仕事も同じである。例として仕事についてあげるならば、一番自分がやりたくない仕事を自分でやるか、それとも部下に回すかということである。私にはそのどちらを選ぶこともできる。面倒だからあなたがやってともできるのだ。しかし、それをしていると、周りは嫌な仕事を押し付けられているという感覚を抱き続けるようになる。それでは祝福は生み出されていかない。私たちが十字架を負わないからだ。しかしそこでこのことに取り組んでみようと、その面倒な仕事を黙って引き受けたとしよう。そうして自分から取り組んでいるとあるときに「自分がやります」という人が出てくるのだ。私に代わって自分からその荷を負おうという人が自主性をもってそのことに当たってくれるようになるのである。これは限りなく、抽象的な話だが、具体的にそのようなところを生きていくことが重要である。私たちが語る信仰というのはきわめて抽象的である。しかし、それを生活の中で具体的にしたときに、神からの祝福や憐れみや様々なものを受けるのである。もちろんどのような恵みを得るかはわからない。しかし、その恵みを待ち望むことは心躍ることなのである。そして神がともにいてくださる恵みを一瞬のうちにわからせていただくことが聖化である。私たちがこれらのことに取り組んでいくと様々な考え方の変化が与えられる。それは成長という意味での広がりであり、聖化ではない。聖化はだんだんと私たちのものになるのではない。変化は大きく一瞬のうちに与えられる。それが神から与えられる変革であり、神からの憐れみの出来事なのである。私たちは時々自分の行ったことを驚くことがある。なんで自分はこんなことができたのだろう。こんな力があったのだろう。なぜこのようなことを語れたのだろうと。それは神がなさせてくださったものなのである。そのように私たちが理解できるようになると、神の恵みの中に生きることができるようになる。
私はアメリカに行ったとき結婚式を見てきた。クリスチャン同士の結婚はそれほど難しいものではない。なぜなら国民の多くの人が大なり小なりキリスト教を信じているからである。だからこそ、結婚しようと考えたら、相手の性格を知り、信仰を知り、そのなかで相手を選び、恋愛が始まる。そして結婚につながるのである。しかし日本でそれができるかというとまずできないと言っていい。なぜならまずクリスチャンが少ないからである。この国においてクリスチャンは0.3%ほど。しかもその中にはカトリックや異端のものも含まれている。同じ考えの信仰を持つ人を探し、結婚しようとすれば限りなく困難であることがわかる。私はそれを目の当たりにしたときに水の中で息をしなさいと言われているようなものであると思った。この国でクリスチャンは正論と現実の大きなギャップに悩む。御心と信じてやってみろと言われても、それは限りなく難しい。難題なのだ。なぜなら相手のすべてを信仰のみで受け入れろと突きつけられるからである。水の中でも信じれば息もできるようになるといわれているようなものである。それは限りなく乱暴な方法である。私たちはこの教会の歴史を見て、そのままではいけないと感じ、取り組んでいったのが家庭集会である。婦人伝道師はそれによって多く苦しんだ。牧師には文句を言えないが、婦人伝道師には言えるという信者も多くいるからだ。しかし、私たちはその中でその苦しみから逃れることもできたが、神がしなさいと召されたのだからと歩み続けた。それに私たちがそうしなければ、この教会の人々が乱暴な、水の中に投げ込まれるような苦難を味わわなければならなかったのだ。そう思えば、このことを私たちは負わなければならないと思わせられるに十分だった。だからこそ、私たちは若い築き上げたばかりの家庭の話を聞き、問題にともに取り組み、時には夫婦の仲裁に入り、信仰を教え、家庭建設を教え、子育てを教えた。しかし、それは確かに祝福へと変えられている。なお苦難はあるかもしれない。しかし、神の恵みを喜び待ちながら、この十字架を負い続けていきたく願う。


Q:NHKでアメリカの教会のことをやっていたのですが、教会が封鎖してしまい、ゴスペルを歌うこともできなくて心から苦しいと言っていたことがあり、日曜日には家族で家の中でゴスペルを歌い続けていました。また教会によってはコロナの中でも開いていて、賛美をしている姿を見ました。その熱い信仰に驚かされたのですが、アメリカの方の信仰の姿はそのようなものが多いのですか。

A:私も様々な人を見た。学生は18歳で入ってくるからまだまだ子どもの延長戦である。信仰に熱心な先生もいたが、そこまででもない先生もいた。質問で上げられたゴスペルに関していうならば、彼らの生活の中でそれはかけがえのないものなのだろう。それがあって当たり前の環境で育つだけで、大きくしみこみ、その人を形づくるものになる。私たちの教会はメッセージを第一にし、教会で生活することが大切であることを語っている。だからこそ、私たちの生活は整えられている。もちろんそれを実行していくには困難も多い。日曜日の礼拝はもちろんであるが、木曜日の夜の祈祷会に出られるように仕事や生活をコントロールしていくには取り組みが必要である。それは、人によっては先ほど語ったように水の中で息をしなさいという困難な生活である。しかし、このような困難な環境の中で生きなければならない分それを会得したときに、生きられるようになったときに私たちは本来不可能ともいえるようなことを実行することができるようになる。実名は上げないが、このような苦難を乗り越えるために祈りを共にさせていただくときもある。日々の聖言も私たちはいろいろな形で聞かせていただいている。教会に対する神のメッセージの中で神がどのようにお扱いになるかということを私たちは待ち望んでいるのである。確かに言えることは私たちがこの形で信仰生活を続け、霊的祝福を得ていることである。そして、神を信じ、歩む力を得ている。だからこそ、神の手の中で生きるために自らの生活をどのように変えていくか、家庭でどのようなことがなされるのかが重要である。ある家庭では結婚して変わったことの中に日曜日の朝の緊張感を持つということがあった。しかし、それを整えていくためには土曜日の夜の生活も重要になってくる。礼拝前日に夜更かしをしているようでは、メッセージを聞くように体は整わない。ただその席を占めているだけではいけないのである。神からの言葉を心から受け入れる準備を整え、その時を迎えることが重要である。そのようにして私たちが自らを整えていくとき、そのメッセージは私たちに届き、私たちを生かすものになる。それは確かに私たちが水の中で息をするように、困難を乗り越えて得られる大きな祝福なのである。

(仙台聖泉キリスト教会会員)