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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-115  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 8章

  ダビデ王家が盤石なものとなる中で、ダビデはヨナタンとの約束を思い出し、それを履行していく。私も若い時は聖書に書いてある通りに捉えていた。しかし、年を取って人の思いや、物事を見ていく中で、物事には何事も動機があることが分かってきた。では、彼の動機は何だったのだろうか。この時ダビデ王家の地位はすでに揺るがないものとなっていた。そのため、彼には多くの自由が許されている。なぜなら、彼を揺るがすもの、その行動を制限するものがないからである。だからこそ、この時のダビデの動きは彼の意思と動機があって行われていることが分かる。そしてそれは民の前にも明らかだった。ダビデ王の動きは民たちの関心事だったからである。そのためダビデ王がどのような価値観で、何を大切にして動いているのかということは、彼の行動を通し民の前に明らかにされていく。アブネルの暗殺について以前も取り上げたが、ダビデはこれにどう対応したかによって、自身の立場を明らかにしている。だからこそ、民はダビデが何を考えているのかという思いをもって今回のこの出来事を捉えるのである。
本題に戻るが、では、メフィボシェテを援助した動機は何だったのか。それはヨナタンへの約束を果たすことで民の前にダビデの信じる神を表すためだった。
神に召された王としての責任があるダビデはなお一層国を堅固にし、敵国につけ入られないようにと働き、注意をしながらそれを果たしている。決して怠惰に生きているわけではなかった。であるとするならば、なぜ彼はこの時サウロ家に恵みを施したのか。人は考えるだろう。ダビデが本来敵と考えるだろうサウロ家にすら憐みを施せるほど彼の地位が盤石であることを表そうとしたのか、または彼の心の大きさや寛容さをこの出来事を通して取り上げようとしたのかなどである。しかし聖書はそのために書かれたのではない。ではなぜダビデのこの出来事が取り上げられるのであろうか。ダビデは、ヨナタンとの約束を持ち続けていた。それは単なる人間同士の約束ではない。二人はペリシテという敵を前にしながら、共に戦ったというほどの戦友ではなかった。むしろ、ヨナタンは王宮という安全な場所にいて、ダビデは戦場の先頭にいた。それほどの直接的関わりはなかっただろう。しかし、彼はダビデを心から、自分のように愛していた。それは、ダビデの信仰にヨナタンも同じものを強く感じた。ヨナタンはサウロの信仰が再び、認められることを待ち望んでいた。しかしそれは結果としてかなわなかった。彼は選択を迫られ、ダビデと手を組み、父を捨てるのではなく滅びゆくサウロ王と最後までともにいることを決めた。約束をした時点ではヨナタンの方が圧倒的に優位であった。しかし、彼は先を見据え自分の行動に対する恵みを保証するようダビデと約束を交わした。その間には神が介入されているため、反故にできるようなものではなかった。人はよく自分の都合で約束を反故にしやすい。しかし、神の前に立てられたこの約束は決して反故にされていいものではない。そうでなくても、ダビデはこのことを心に留め、その機会を探していたのである。そしてこの時、神の前に交わされた約束を履行したのである。ここに象徴されるのは、神の一方的な憐れみとしての恵みである。
神から選ばれたということは一方的なものである。そこには憐れみと恵みしかない。選ばれるほどの理由があるから選ばれるのではないのである。サウルが王となったのも、神の恵みとあわれみの故である。だからこそ、その道から外れ、約束を反故にしてしまったサウルは選びから外されてしまったのである。
メフィボシェテには子どもが与えられている。もうすでに彼は家庭も設け、その残りの生涯を歩むしかなかった。しかし、彼は憐れみを許され、本来導かれるはずだったサウロ家の恵みを受け継ぐに至ったのである。彼は憐れみの故に、その恵みを継承できたのである。
神は憐れみ、私たちを導かれる。私たちが恐れていかなければならないのは、その憐みから外れ、本来与えられることを喜ぶべき出来事を受け入れずに終わってしまうことだ。神が私たちを一方的に憐れみ、選んでくださったというこの恵みをなお心から感謝し、日々を歩んでいきたく願う。


Q:信仰の量りを正確に持ち続けるためにはどのようにすればよいでしょうか。

A:その正確さを保つためには、多くのものを計ってみるということが必要である。しかし私たちにとってそれはそう簡単なものではない。ヨナタンは信仰の量りを持ち続けていたが、彼も全く悩まず、ことを行っていけたかというとそうではないと思う。彼は大いに悩んだだろう。しかし、彼は様々なことを自身で量りながら選択や、行動によってその立場を表し続けた。彼の量りが正しく計ることができていたことはヨナタンの行動が事実履行されているということで裏打ちされている。彼はダビデが神によって次の王へと召されていることを信仰によって計った。しかし、だからと言って、自身の立場をすぐそちらに移してしまうのではなく、神の御心を追い求め、父を愛し、敬うゆえに彼は自身の立場をサウロの隣に置いていた。しかし、彼はすでにその事実に気付いていたからこそ、ダビデに対し契約を求めたのだ。もし彼が、そのことに気付いていなかったのならばダビデにこのようなことは求めなかっただろう。そして、彼の信仰も継承されなければ、メフィボシェテにサウロ家の土地が与えられることもなかっただろう。
サウルが狂っていた時期、彼はダビデに対して圧倒的に優勢だった。それにも拘わらず、彼はダビデの存在を大いに恐れていた。その恐ろしさを理解していたのはサウルだけだった。ヨナタンですら理解はしながらも、当人でないために一面冷静になれたのだ。私たちも日々の生活の中で語る言葉や行う現実の中で、自らがどのようにして信仰の量りを用い社会や家庭の中で選択したことを履行するかによってその信仰生活が守られていく。その選択は全て神の基準によるものである。パウロが信仰の量りをもって計ることを示したのも、計ったことを社会で果たすことで、周りに神を表し、また家庭で果たすことで、子どもたちにその信仰を示すことができるからである。
ヨナタンの人生の中に信仰者のそれを見出すことができたかというと、できたのは本当に僅かだろう。しかし、それを理解できた僅かな人の中の一人がダビデだったのである。


Q:ツィバという存在はメフィボシェテにとってどのような存在だったのでしょうか。

A:どのような存在であったかというと、従者の一人で彼のすべてのことを代わりに行い、整えている人物であった。ヨナタンのことで、ダビデがメフィボシェテに恵みを施してから、ダビデ王家の中にメフィボシェテの地位が確立されている。彼のためにかかった費用はダビデの国庫から出ていただろう。そして彼はダビデと食卓を共にする存在になっていた。
当時のイスラエルにとって土地というのは神から貸し出されたものであり、その人の所有ではないと考えられている。そしてサウル家の持ち物はダビデのもとに在った。だからこそ、ダビデはそれらすべてメフィボシェテに返すという形を採った。そしてその管理を任されていたのが、ツィバである。彼は管理者としてその所で働きにあたっていたが、アブシャロムの問題でついに主人であるメフィボシェテを嵌め、その持ち物をすべて奪ってしまうということが起こってくる。本来神を信じているものがなぜそのような憂き目にあうのかが分からないという人もいるだろう。今回取り上げたところでこれだけの行動をツィバはしておきながら、なぜ最後のアブシャロムの乱のときに、裏切るような行動をとってしまったのだろうか。それは彼の量りが狂ってしまったからである。真実に仕える側で始まったのであろうツィバも、最後には変わってしまった。ここで聖書は人が豹変する、狂ってしまう存在であることを語っているのである。だからこそ私たちは自分の信仰を保っていかなければならないのである。
混乱が起こったときにこそ、現れるその人の行動がその人の本心である。ダビデのメフィボシェテに対する行動は一面当てつけのようなものであることが分かる。しかし、彼は自らでした判決として一度ツィバにすべてを与えると言ってしまった。それゆえに本当はツィバが悪いとわかっても、ツィバとメフィボシェテですべての持ち物を二分するようにというような結論で終わっている。ただそれはいい加減にした結論ではない。なぜなら、ダビデは神がすべてを最終的に裁かれることを知っているからである。ダビデは後のことを神の御心に任せた。悪が栄え続けることはないし、神に真実に生きているなら、神がすべてをメフィボシェテの前に戻してくださると信じているのである。そして事実神はそのようなことを成される方である。私たちも信仰を全うしていても苦しみや悲しみの中に陥るときがある。一見悪が栄えているように見えることもあるだろう。しかし、それで絶望してはいけない。私たちがメフィボシェテのように真実に生き続けるとき、神はそこに必ず祝福とあわれみをもって応えてくださる。そして、もしこの世にあってそうでなくても、必ず、神の国において私たちに与えられる地は私たちのすべてを知られる神によって備えられているのである。


Q:ピリピ2章17節「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝と共に、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなた方すべてとともに喜びます。」このところが気になり、私は神に示されていると感じるのですが、どのように捉えるべきでしょうか。

A:言葉の通り、心からパウロはイエス・キリストと同じように、ピリピの人が救われるなら、いのちを賭してもかまわないと考えていたのだろう。神が贖い赦し、私たちを愛してくださった。同時に私たちの周りにも私たちを愛してくれる存在がいることに気付くことができる。彼はピリピの教会の人々を心から愛していた。だからこそ、「ピリピの教会の人のために命を捨てることも私の喜びである。それが私の人生の喜びなのだ」と彼は語っているのである。もともとパウロは教会を迫害する側だった。しかし、彼は神の愛に出会い、キリストの贖いを知り、命を懸けて伝道するものになった。彼はこの神の愛を知り、心から喜んだのである。だからこそ、その愛に応えようと福音の働きをその生涯とした。私たちに与えられる神の愛は一方的な憐れみによる。それは私たちに何ができるから、何をしたからではない。すべての人に無条件で与えられているのである。それを心から喜ぶゆえに私たちは行動せずにはいられない。パウロはそれほどの愛を受けたことを自覚し、神が愛しておられる存在を慈しもうとした。そしてそこから神の道へと導かれるものの存在を心から喜んだのである。彼は自分の命さえも神の働きに用いられることを喜びとしたのである。彼のこの行動や言動から彼の信仰が分かり、神とピリピの人々への愛が分かる。それは私たちも同じである。ご主人の行動や言動を通して、何を大切にしているかその信仰が分かるし、ご主人も貴方の楽しみや喜びからあなたの信仰を知るのである。人間はそう簡単にごまかせない。にじみ出てくるもので多くの事がわかってしまう。それは良いものもであるが、悪いもの、変われないものもそうである。だからこそ、心から真実に神を愛していない者の姿はその行動や言動に本人の無意識と共ににじみ出てしまうのである。それは他者の信仰をくじくものにもなりやすい。特に子どもたちには直に伝わる。あなたやご主人がどれだけ神を愛し、喜んで仕えているか、祝福を受けているのかが分かれば子どもたちもそこに歩むようになるのである。なお喜びをもって神の前に歩み続けてほしい。


Q:教会学校の中でソロモン王を学んだのですが、外交で彼は外国の女性を妻として迎え、それが、偶像につながり、神と完全に一致することができなかったと学びました。年を取ると具体的な事柄を守り続けることが困難になるということを先生は語られましたがどのようにして自らを守り整えていけばよいのでしょうか。

A:私は老牧師の説教の中で印象に残ったものがある。それは「年を取り、できなくなる前に、自分の力があるうちに、あらゆるものの処理をしなければならない」というメッセージである。そしてそのためには信仰の目を持ち、先を見通してことを進めていくことが必要であると語られた。
またこれは私が自ら出した結論だが、狭い生活をするということである。自分の力を必要以上に広げていかず、自分の手の範囲内でことを行っていくことで良しとした。範囲を広げれば、自分の力量が図れるし、良いことも多い。しかし、私は広げないことにした。多くの誘惑を感じた。自分が手を出せるような働きは多くある。しかし、そこを抑えていくことで、私は必要なものを最低限確実に掌握できるようにしたのである。ソロモンは年を取り、今までできていたこと、手が届いていた範囲に手が届かなくなり、掌握することができなくなった。それゆえに揺らぎ、最後には守らなければならないこと、最も重要であることを逃してしまったのである。優先順位を違えてしまったのだ。
また私は全てのことについて聖言を通して考えることをやめない。私の中でメッセージは常に動いている。そして、私はこの教会の中で皆さんと共に生きることが最も重要だと考えている。
私は今、家庭集会を特に大切にしている。自らがこれまで経験したところから、若い家庭にどのように信仰をもってそれを保っていくかということを教えている。その中で私たちの生活もどのように生きるかということをチェックし考えさせられる。私は両親と同居しているが二人がそばにいることも、私の生活を狭くさせることにつながっている。私は一連のこの問題の答えとして私の経験でしか語れないが、どれだけ慎み深く生きるかということが重要だと考える。神の憐れみは憐れまれるような生き方をしていると導かれる。祝されすぎたり、物がわかりすぎたりすると有意義に自由奔放に生きられるようになってしまう。福音の中に生きるというのはやはり、自分に良いものを選んで歩んでしまわないようにしなければならない。またそれを不得手ではなく、得手にしていけるかが重要である。厄介なら厄介なりに自分のそばに置いておく必要がある。しかし賢いとそのような苦労するところをすり抜けていってしまう。信仰者はそれではいけない。嫌でも自分のそばに置いて取り組まなければならない。そうして生きていると神の憐れみと慰めが与えられるものなのである。そしてそのような経験を多くした人は、一人一人の苦しみを共に生きることができるのである。


Q:マタイ6章33節「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」というところが礼拝で語られましたが、「その義」とは何を意味しているのでしょうか。

A:神の国とは神の支配の中で生きることである。神の支配は常に及んでいるから、私たちが何をしても救われるということではない。私たちの側に行動を起こす選択肢が与えられているのである。私たちの選択によっては救われもするし、裁かれもするのである。聖言の中に「死ぬこと死んでさばかれることが決まっている」と語られているがこれは、すべてのことが神のもとに記録されていることが表されている。それは人によっては恐れかもしれない。悪いことが忘れられないと考えるからである。しかし、実際この聖言には私たちが忘れている良い行いも神は覚えていてくださり、憐れみをもって見守っていてくださることが語られている。天の御国はそのようなことが提供される所なのである。だからこそ、この地上の生涯において、そう信じて生きてみなさい、その選択をしてみなさいと神は私たちに求めておられるのである。そして、それが私たちの本来の姿であり、正しいこととして受け入れ、生きることが必要なのである。しかし、もし、そこに生きられないなら、正しいことを正しいと行うことができない罪をきちんと悔い改めて贖っていただくことが必要です。そして、悔い改めたなら、わずかでも義へと進み、正していく取り組みに自らを置くべきである。この聖言はそのような生き方を第一にしなさいと語っている。そして、それを守るなら、神は私たちの必要を全て与えてくださる。だからこそ、その約束が守られることを信じ、生きることが必要なのである。
「私たちはそれぞれに与えられた信仰の量りに応じて」と語られているように、すべてのことを急ぐ必要はない。私たちはこのことを心に留め、日々を生きることが重要なのである。そうすれば、経験と知識が増し加えられ、神に与えられた信仰の量りで物事を量り見極め、神の御心に沿って歩むことができる。貴方が旦那さんと出会えたのも神の恵みである。あなたが旦那さんのことを「子どもを育てることにおいて、あの人にないのはおっぱいだけです」と語っていたが、それほど積極的に伴侶者が子育てに参画している。これによって与えられる子どもへの影響は大きい。お互いが、神の前に信仰をもって信頼し、尊敬しあって生きているからである。なお、神の国と義を求め、神の世界、福音と共に生き続けてほしい。

(仙台聖泉キリスト教会会員)