同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(5) —

野澤 睦雄


「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」」(マタイ 4:17 )
「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:9-10)

1.救いに至る道

 ・罪の自覚が不十分であっても
先に、罪の自覚すなわち「認罪」が不十分であって、こころの奥底に届いていない状態を、罪の事実を認識しているだけの状態と表現しましたが、それでも救われることがあります。
 私の父の救いはその典型的な事例です。父より先に父の兄(私からは伯父)が救われました。伯父は父よりも10歳年上で、父親(私の祖父)は早く亡くなって、伯父が働いて一家を養っていましたので、伯父には逆らうことができない関係になっていました。伯父がキリスト教の集会に一緒に来いという。出かける時間になるとトイレに入ったりして逃げ回っていましたが、いつまでもそうしてはいられないのでとうとう集会に連れていかれました。父はキリスト教について何も知らないし、聖書は神話、作り話だと思っていたそうです。行った先は柘植不智人(つげふじと)牧師の率いる落合伝道館でした。
集会の最後に、導いた先生が、「今日はじめて集会に来た人は立ちなさい。」といいました。
大勢の人が立ち上がったので、自分もはじめてなの立ちました。
すると先生は「自分の知っている自分の罪を言い表しなさい。」といいました。
多くの人が罪を言い表していました。それで父も思いつくままに自分の罪を言い表しました。
人は誰が聞いているのでもないのですが、神は聞いておられました。すると導いた先生が、
「子よ。心安かれ。汝の罪赦されたり。」(マタイ 9:2)
というみことばを開いて、神があなたにそう言っておられる、と言いました。
そのとき父はそれを信じました。そして救いの恵みに与りました。
その瞬間「聖書は真実である」ことをも信じました。
 自分の罪を口で言い表すことを実行することは、救われるための大切な手段です。

 私が救われて間もない頃、教会にいってはいるけれども救われていない知り合いの青年たちがいました。私の下宿を訪ねてくれたとき、「救われることができます。さあ罪を言い表してごらんなさい。」とすすめました。それを実行したひとは、確かに救われて帰りました。認罪におののいたのではありません。勧められるままに実行したのです。幼稚な伝道にも聖霊は働いてくださいました。

(仙台聖泉キリスト教会員)