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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-120  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 14章


 一つのアブシャロムに関する物語が続いている。兄であるアムノンを殺し、母方の実家に逃げていたアブシャロムの問題がここで取り上げられている。ダビデの晩年にこのような事柄がいくつか起こってきているがこれはダビデという人間を中心に起こっていることを考えれば、当然その生涯すべての問題が絡んでいることが考えられる。 私たちは聖書を読む中でまるで個別に物事は起こっているととらえやすい。しかし時期や、起こってきた事情は違うかもしれないが、これは一人の人間の周りを取り囲む状況の中での出来事であることを考えれば、すべてにその人格の性質が生涯の要素として加わっているのである。つまりその中には彼を取り巻く人物との関係性も表れてくる。解決したような問題でも、被害を受けたものや、巻き込まれた者たちの心には根強く残っており、それがのちの出来事の中で垣間見えることも起こってくる。 私たちの間にもそのようなことが当然ある。だからこそ、注意を払いながら生きていく必要がある。信仰者となった今、故意に罪を犯してしまうことはもちろん避けるべきである。ただ、それだけですべてがいいかというともちろん違う。過失であろうとも起こらないように対策を打ち、十分に対処すべきである。また時にはこちらは相手のためにしようと思ったことが裏目に出て、相手の気分を害してしまうこともある。 罪の問題にはよくよく注意していかなければならない。そうでなければ私たちは自分も含め、相手にも大きな問題を残し、放置してしまう。信仰者も自分は救われて解放されたと罪の問題に疎くなってしまえば、罪は私たちを待ち伏せているのである。 ダビデは確かに大きな罪を犯し、その影響が後の人生に付きまとっている。ダビデ自身は神の存在を信じ歩んでいた。その人格的交わりは深く、だからこそ神からナタンを通して罪を指摘されたときに悔い改め、神から赦しを得ることができた。しかし彼はその罪から派生してきたアムノンやタマルの問題に弱さのゆえに正面から対峙することができなかった。先ほども語ったが、赦されたからそれで「はい終わり」ではないのだ。私たちは神のお扱いを受けながら、その問題に当たっていかなければならない。 アブシャロムをそのままにしておいてはいけないとヨアブが行動した。ヨアブは以前も取り上げたが、有能で大きな力があった。しかし一方でイスラエルの神を自らの神とはしなかった人物である。あれだけダビデのそばにいてその恩恵を受けようとも、彼の心はかたくなだった。むしろその恩恵を利用するほどであったのだ。 その彼が、ここでアブシャロムを引き戻そうとしたことについてどのような意図があったのかは正確には分からない。 しかし、そのために彼は女性に知恵を与え、芝居をさせてまでことを動かしたのだ。ただここでのナタンとの違いは、彼に神を信ずる信仰者としての営みというものが根底にないということである。本当の意味で神を知り、信仰によってこのダビデとアブシャロムの問題を解決しようとするならば、ダビデとアブシャロムを引き合わせ、ダビデにこの問題への対処をさせることが必要だった。 しかし、ヨアブは引き戻すだけ引き戻しておいて、そこからの対処を何一つしていない。彼ほどの実力者がこの程度で終わっているということは彼が本気でこの問題を解決しようとは動いていないことの表れだった。ダビデはアブシャロムが戻ってきても「私の顔を見てはならない」といって彼との間に距離を置いた。それで2年もの間アブシャロムは放置された。 そして、彼の方から行動を起こし、畑に火をつけて抗議するほどまでにもなっていることが書かれている。ヨアブは結局信仰に生きていないゆえに、この問題に立ち上がったものの、その状況が悪いのを見て身を引いたのである。結局彼は利益でしか物事を進められない。そこに本当の意味での愛はないのだ。ダビデはそのことを承知していた。しかし、それでもヨアブを遠ざけることはしなかった。このヨアブのことも、バテシェバ問題から始まった一連の罪の出来事もその根本にはダビデの傲慢が原因としてあるのだ。飛躍しているように感じるかもしれないが、この罪の出来事には本来触ってはならない存在であったのにもかかわらず、「なぜ王の私が手に入れてはいけないものがあるのか」という意思があり、結局はそんな弱さを取り除けずに、手を触れてはいけないものに手を出してしまったのである。 この一連の出来事の後、赦しを受けてもう一度立ち上がることはできたが、やはりその弱さにもう一度自ら対峙していかなければならなかった。それにもかかわらず、彼は神を見上げて歩むのではなく、目を伏せてしまった。その結果、変わることができないまま、その問題がどんどんと混迷してしまったのだ。ダビデはヨアブに乗せられてアブシャロムを引き戻したが放置し、2年の時を硬直状態で過ごした。その後アブシャロムが抗議したことでもう一度呼び出したが、そこで行われたのは偽りの口づけという行為である。本来、愛を表す最上級の好意である口づけが形ばかりで行われている。そしてそれを一番実感しているのは誰だったのか。ダビデを一番傍で見ていたアブシャロムである。ダビデは取り返しのつかない過ちを重ねてしまったのだ。私たちの間にもこのようなことが起こってくる。弱さは私たちを取り囲み続けているし、それに立ち向かっていこうとしても、できない場合もある。 しかし、そのままで弱さの中に生き続けるのではなく、弱さを認め、聖霊と共に正面からその問題に対峙し続ける中で、きよめが与えられ、神の器として聖別されていくのである。それを神がなしてくださる。だからこそ私たちは弱さ足りなさを持つことを自覚しながらも戦い、勝利を得て行くことができる。なお神に信頼し、イエス・キリストの十字架上の贖いを信じ、日々を生き続ける中で、わずかながらでも前進していくことができるよう感謝と共に歩み続けていきたく願う。


Q:19節からダビデはヨアブの指図によってこれらのことが起こったことに気付いていましたが、それでも彼はこのことに乗っかってアブシャロムを呼び戻している。ダビデはなぜこのことを受け入れたのでしょうか。

A:ダビデはヨアブを見抜いていたと私は考える。このことは本来ヨアブからなされるべきことではない。ただ、ダビデはことが起きてきたときに、どこまで神の御心であるのかを模索し、どうしていくか悩んでいる。このようなことは預言者などに聞いて簡単にわかるというものでもなかった。だからこそ彼自身、選択を迫られ悩んだのである。彼はなぜこの出来事を保留にしていたのか。それは神との前にもう一度今まで行ってきたように交わりを持ち、事に当たっていこうとするならば、神から決断が下されてしまう。それは赦しという結末にもなるかもしれない一方で、アプシャロムを裁きなさいと語られるかもしれないからである。だから保留にしたかった。しかし、ヨアブがそのことに異議を唱えたのである。そこにはもちろん状勢的な問題や、民の声などもあったとは思う。先ほど語ったように利益が得られるかもと手を入れたら以外にも面倒なことだったということもあっただろう。どっちにしてもこのことによりダビデは、これが神から出たことなのか、それともヨアブの何らかの利益追求なのかとそのあやしさに見事に翻弄され、混迷させられてしまった。先ほど、ダビデの罪は傲慢だと語ったが、傲慢は一面知恵によってもたらされる。しかし一方でその知識からくる情報量の多さに混迷させられてしまうこともあるのだ。だからこそ注意していかなければならない。傲慢という感覚は特別なものである。そう気づかずにいつの間にか慢性的にその様な考えになっているものも少なくない。50代60代には実力も現れ、功績というものも出てくる。しかし、それを見ながらも傲慢にならないでいるということは難しい。私たちはそこを量り間違えることなく、自らが助けをいただいているものであることや、神が許されているものであることを考えていかなければならない。傲慢が自らの中に蔓延るならば、私たちはどんなに力や位が与えられていようと、神がそれを裁かれ、取り去られてしまうのである。なお気を付けて歩み続けていきたく願う。


Q:ダビデはヨアブに乗じておきながら、アブシャロムが帰ってきたら顔を合わせることを許さなかったですが、ヨアブからすれば、仲直りをしてほしかったのではないかと思ったのですが、どうなのでしょうか。

A:ヨアブはダビデとアブシャロムの仲保者となろうとした。そして彼は女性の言葉を通して、二人とも失ってしまうよりも一人を、つまりアブシャロムを許した方がいいということを意見している。しかし、これも赦して終わるのか、そこに正式な悔い改めがなされているのかということも重要になってくるのである。本来それが取り持つ者の大変さであり、そこに自らを本気で投じてこそことがなされるのである。それは自らのものを投げ打ってでも行っていくほどの愛が必要なのである。実際このことを私たちのためにしてくださったのがイエス・キリストである。キリストは神と人との間に仲保者となり、その命を投げ出し、痛みをすべて、余すことなく受けられた。そのようにして初めて成り立つものであり、そう簡単にできることではなかったのである。ヨアブ自身は政治的な考えや、自らの保身や利益など人間的な考えをもち、これらのことを取り持とうとした。あたかも神の考えかのように物事を持ち出して彼らを自らの意に添わせようとしたのである。私たちには聖言がある。しかし、それそのものは多くの人の手に渡り、多くの人が読めるものである。だからこそ、確かな御旨を知らなくても、自らの意見をあたかもそこから導かれたかのように語ることはできる。人の罪を指摘して、ここにこんな聖言があるから、あなたはそれをやめた方がいいとか、逆にこうするべきだとか。しかし本来はそのようなものではない。仲保者は共に歩み、その重荷を背負い、時には共に泣きながら神を信じて歩むものである。それによってこそ仲保者はその関係を取り持つことができるのである。それが人格と人格のつながりであり、それが本当に心の伴う交わりなのであり、本当の救いとなる。


Qアブシャロムはダビデの弱さを観て、結局ダビデに対峙することを決めたと思うのですが、では本来彼はそのダビデの弱さの前にどのように信仰に歩むべきだったのでしょうか。

A:子どもは親の弱さに向き合っていかなければならない。物事は全て理由を挙げて否定すればなんでも言える。しかしそこに目を向けていくのではなく、その人から与えられたもの、感謝すること、愛されたことを覚えていれば相手を愛することができるのである。「こんなになったのはアンタのせいだ」と言い放ってしまえば、なんでも理由になってしまう。しかし、自ら成した悪しきの刑罰は原因を作った相手にではなく自分に来る。それすら相手のせいにして文句を言ったところで、結局何にもならない。世間をわきまえている人には馬鹿にされて終わりである。だからこそ、私たちは愛するゆえに相手の弱さを見つつも、それ以外のことを覚え、相手を敬うことを忘れないようにするのだ。私は反面教師的に学ぶために相手の弱さを上げることがある。しかし、それはあくまで相手を責めるためではなく、自分を整えるためである。神が愛してくださったことをもう一度思う時、私たちは赦されたものとして、相手の非を上げて侮ったり、罵っていいような存在ではないと気づかせられる。私たち自身がまず弱さを持つものであるからである。そのことを考えれば、自分の非は置いておいて、相手ばかり悪く見るのはおかしいことである。人に当てる物差しと自分に当てる物差しが異なってはならない。自分の物差しを神によってかえていただいたのなら相手を計る物差しも変えるべきなのである。もちろん何でもかんでも許せというわけではない。しかし、信仰に生きるお互いであるならば、私たちは相手を心から愛し、その弱さゆえに出てくる過ちを時には悔い改めを迫ったり、赦し合ったりしながら、生きていくことが大切なのである。アブシャロムにはそれができなかった。ダビデの弱さに対峙することなく、彼の弱さを責め、自らの過ちすら正当化しようとしたのである。私たちもそのようなものに陥らないようになお注意して歩みたく願う。


Q:先日の家庭の会話の中で罪を犯したことを神は忘れてくださるということについて考えたのですが、それはどのような意味合いでとらえたらよいのでしょうか。改めてお聞きしたいのですが。

A:聖書が一貫して語っているメッセージは、私たちの罪のためにイエス・キリストを神が与えてくださったということである。それは私たちが犯した罪を忘れるほどであると語っている。それは文字通り捉えるというよりも、そのように神が扱われるということを語ったのである。私たちが神に近づくためには罪から完全に切り離されていなければならない。イエス・キリストを信じ、その救いを自分のものであると確信するということは、罪から私たちを完全に分離させるのである。だからこそ、神に近づけるし、私たちは罪なき者として扱われるようになるのである。同時に私たちは罪を赦して忘れていただいたのだから、悔い改めをした相手の罪は私たちも赦し、忘れるべきである。もちろんただの形ばかりのごめんなさいというものではなく「イエス・キリストの贖いが自分の為である」ということを理解したうえで、神がイエス・キリストによって赦してくださったということを相手が証したらである。その神への悔い改めが重要なのである。
だからこそ、私たちは罪許されたものとして、相手の罪をも赦すのである。なぜなら罪はどれが重い、どれが軽いというものではないからである。神の前には大きい罪も小さい罪も同一であり、それを赦されたということが重要なのである。
忘れるという言葉はそのままそのようなことではなく、そのように扱うということである。つまり、それを持ち続けて「あの人ってこういうことしたんだって」と噂話のようにするのではなく、何もなかったかのように、その人が過去、何をしたかということを持ち出すことなく、普通に接することなのである。それが神すら忘れられた罪に対する私たちの本来必要な姿勢なのである。


Q:先日の聖別会の時に狭い人生をイエス・キリストが歩まれたということが示されましたが、私はその部分に困難を感じています。NoはNoと割り切らなければならない部分と、その人の過ちも覆ってあげたいと思う部分もあります。どのようにその心を整えるべきでしょうか。

A:狭さの強調点は「真実は一つである」ということである。聖別会で取り上げた本では、イエス・キリストが真理を曲げなかったということと、それを様々な人が自分の見解で好き勝手に捉えることを許さなかったということで「キリストの狭さ」と語られたのである。私たちは一面そのような線引きを大切にしていくべきであると考える。亡き老牧師がそのことを強調し、それによって私たちを救うことを大切にしていた。
信仰の継承ということを第一に考えた時、私たちは狭く生きなければならないということを大切にした。もちろんそれが得手な人と不得手な人がいる。手綱をキツメにする人もいれば、緩めの人もいて、緩すぎれば離れていってしまうかもしれないし、逆に締めすぎれば苦しくて自分から逃げてしまう者もいる。何がいい、悪いではない。その中で自らの後継者を探りながら、その人格を導いていくことが大切なのである。祈りつつ、このことにも取り組んでいきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)