同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 忘れないようにしなさい —


「ただ、あなたは、ひたすら慎み、用心深くありなさい。あなたが自分の目で見たことを忘れず、一生の間、それらがあなたの心から離れることのないようにしなさい。」 (申命記 4:9)

 「苦しい時の神頼み」で教会にきて、確かに救われて信仰生活をするけれども、しばらくすると教会からいなくなる人々がいます。教会にきて安定したこころと生活ができるようになり、救われる以前の苦しかったことを忘れます。そして別の悩みはやはりありますから、そのとき前の苦しさを忘れることが原因だろうと思います。 出エジプトしたイスラエルはその好例です。
 エジプトで奴隷とされたイスラエルは、苦しさのあまり神に泣き叫びました。
「エジプトはイスラエル人に過酷な労働を課し、粘土やれんがの激しい労働や、畑のあらゆる労働など、すべて、彼らに課する過酷な労働で、彼らの生活を苦しめた。・・ また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」」(出エジプト記 1:13-22)
「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。」 (出エジプト記 2:23)
彼らはモーセに導かれ、神によってエジプトから救い出されてシナイの荒野を巡り歩きました。
 そしてそこで、エジプトの悩みとは別の困難なできごとに遭遇しました。荒野では食べ物が十分でありません。するとたちまちエジプトの苦しかったことを忘れ、よかったことを思い出しました。
「イスラエル人は彼ら(モーセとアロン)に言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。・・」」(出エジプト記 16:3)

  自分の例で考えると、学生生活のはじめ、フォークダンスは楽しいものでした。けれどもこころが虚しい。その虚しさに耐えられなかったので教会に来たのでした。救いはその虚しさから私を解放しただけでなく、こころに平安と喜びをもたらしました。しかし平安の中に、別な悩みがあります。もしフォークダンスをしたら、すこしはその悩みが和らぐかも知れない、と思って行動したら、ペテロが「私は漁に行く。」と実際にガリラヤ湖に行ってしまったようなものでしょう。でも私のこころに感じた虚しさは「あの虚しさに戻るなんて絶対にいやだ。」というものです。

 みなさん救われる以前の自分を、忘れないようにしましょう。