同労者

キリスト教—信徒の志す—

巻頭言

— とりなしの祈り —

山田 行


「その時、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」」(ルカ 23:34))

 2021年3月13日、私の愛する父は天に帰りました。87年の人生でした。教会の皆様をはじめ、生前父に関わって下さった沢山の方々に心より感謝いたします。
そして何より、神が父を愛し、生涯を豊かに助け導いて下さり、御手を動かしてご自身の時に御許に迎えて下さったと信じ、御名を崇めます。

 冒頭の聖句は、孫である山本咲師、更師を按手をもって仙台聖泉キリスト教会の牧師、伝道師として任命した時に父が開いた御言葉で、父の最後のメッセージとなりました。病によって随分弱っていましたが、父の心の叫びの祈りが込められていたと思います。
 父は、朝のデボーションの時も、また礼拝をはじめ諸集会でもとても大きな声で祈る人でした。それと同時に、すぐそばにいらっしゃる神に語りかけるようにいつも丁寧に大切に祈っていました。その祈りを聞いているだけで私も神のそばにいて共に話しているような感覚になったもので、父は娘の私から見ても素晴らしい祈りの人であったと思います。

 また、父は愛の人でもあり、私に注がれた愛は親の愛というだけのものではなく、どんな時も変わらないその愛を通して私は神の無限の愛を学ぶことが出来たと思います。

 そんな父ですが、罪に対してはとても厳しく、その怒りはとても恐ろしいものでした。私が罪人であることを真剣に教え続け、悔い改めを示し続けてくれました。その陰で父はどれほど私の救いのために祈り続けてくれたことでしょう。冒頭の聖句のように、十字架上のキリストのように、父は命を懸けてとりなしの祈りをしてくれたと思います。とうとう私は20歳の時に神に捉えられ、イエス・キリストの十字架の前にひれ伏すことが出来たのです。そして罪を悔い改め、十字架の血潮によって赦して頂く恵みを与えられました。父は本当に喜んでいました。恐ろしさが一転した父の喜びの姿に、きっと神も喜んでおられる、と父を通して天上の喜びを見たかのような思いでした。

 やがて私も子供たちが与えられ、父に倣ってとりなしの祈りをし続けました。その祈りは応えられ、そうすることによって信仰は、命を懸けて祈り、隣人を愛して、与えられた教会の建設のために雄々しく立ち続けることであることを学びました。

 晩年の父は、最後の最後まで神を知らない人々に声をかけ続け、自分の葬儀も福音のために用いて欲しいと願っていました。その願い通り、亡くなる間際まで通っていたスポーツジムのお友達は、父の誘いに応じて教会の集会や活動に多く参加してくださり、最後は葬儀にも沢山いらしてくださいました。父は本当にスポーツジムではフレンドリーで多くの方に愛され、葬儀には来られなかった方々でも、その後お会いすると遺族の私たちに涙を流して語りかけてくださったりと、多くの方々と深い交わりをしていたことを感じました。教会や家庭にいる父とは少し違う顔を見ることが出来て娘とすると驚きました。今思えば、神が下さった福音を伝えることを、最後は楽しそうにしていました。

 私も父に倣い、神の証人として隣人のためにとりなしの祈りを献げ続ける者でありたいと願いました。そして神に信頼し委ねて、与えられた今を精一杯感謝して歩み、最後まで喜びのうちにキリストの福音を伝える者であり続けたいと願っています。

(仙台聖泉キリスト教会会)