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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-121  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 15章


 アブシャロムがいよいよ謀反を実行に移したことで王宮にも混乱が起こり、多くの人の心が動かされる事態となっている。この時ダビデもすでに盛りを過ぎ、周りの国との争いもなくなって国は安定していた。しかし一方で人々の思いは淡々とした変わらない日々の中に感謝を忘れ、自らの心を楽しませるようなことが起こらないかと思うようになっていたのである。そしてそんな時にこの謀反が起こった。
 サウルからダビデに王位が変わり、王宮が確立されてきた中で民の暮らしも安定した。人々は自分の家柄を含め地位や立場を確立し、一面平和的で安定した日々を歩んでいた。もともと彼らは系図、血筋というものを大切にする民族である。だからこそ家柄が彼らにとって大切なものとなっていった。アブシャロムがアムノンを殺害した出来事を含め、人々は王宮の問題に何が起こっているのだろうかと興味関心を持っていた。その中でアブシャロムは王に訴えをもって謁見してくる者たちに自分のことを売り、自分が王であればあなたの願いを聞き入れるのにと声をかけていくことで民の心を奪っていった。実に4年の年月をかけ多くの人に自分の存在価値を植え付けていった彼は、時が来たとばかりにこの謀反を起こしていったのである。しかしこれはイスラエルの神による王位継承ではなく、民の心をつかんで王位を奪うという形となった。
 またこのところから、あれだけ問題に対処しその鋭い洞察力をもってあたってきたダビデに機能不全が起こってきていることがわかる。ダビデはアブシャロムを放置し、ことが起こって初めてその問題に対処するという完全に後手に回っているような状況に陥っているのである。
 私たちは聖書の歴史を多く知っているため、結果としてこの後どのように神が導かれるのかも理解している。しかしこのサムエル記の筆者はその歴史を知りながらも、あくまで先が見えないという状況を根底に置き、神を信じる者たちがどのようにして神の御心を捉え、道を選択していくのかということに視点を置いている。それは私たち信仰者が日々歩む現実と同じである。選択肢があって、その結果どのようになるかが分かっていれば私たちも最善を選べるだろう。しかし、実際は全くわからない。それでも、そのような現実の中で神を信じ、神の示される道に生きようと日々歩むのである。
 ダビデは機能不全によって事前にこの問題を察知することはできなかった。しかし、現在起こっている危機的な状況を悟ることはできた。だからこそ、その時点で自分や周りの者を救うために多くの手を打つこともできた。それは彼自身が今まで神と共に歩んできた中で得たスキルである。ここにも注意していかなければならない。その能力を神と共に得たものとして神の御心と共に歩むのか、それとも自分の力だとおごり高ぶり結局自分本位に生きてしまうのか。神が与えてくださった祝福への感謝を忘れずになお共に歩み続けることが、信仰者として必要なことなのである。
 またアブシャロムは人の心を盗んだと書いてあるが、そこには自分の要望を通すという目的が背景にあり、愛の行動でも何でもない。それを表す言葉が「盗む」である。彼の行為は盗むことが主体となってしまった。となれば彼自身だけが成功するものではない。同じような状況を自分のもとに招き、自分についた者たちもまた他者に盗まれるという状況が起こってくるのである。結局彼は盗むという不真実の中で生きなければならなくなる。
 この章にはアフィトフェルという人物の名が出ている。ダビデにとってこの裏切りは大きなものとなり、「何とか乗り越えていけるだろう」と思えるような状況ではすでになくなっていた。自分が滅ぼされてしまうのではないかという大きな恐怖の中にダビデは置かれることとなる。アフィトフェルという人物にはダビデにそのように思わせるほどの力があった。だからこそ、その脅威に立ち向かっていくためにダビデは神に祈りをささげた。神の力を信じず、盗む行為をもってして神の民を先導しようとする者たちに彼は神と共に立ち向かっていくこととなる。そしてそんなダビデの祈りに力ある神が応えられ、与えられたのがフシャイであった。ダビデにとって彼はアフィトフェルの脅威への祈りに神が応えてくださったのだと感じられるほどのものだった。そして彼は感謝と共にフシャイを送り出すのである。神は折に触れて私たち信じる者にその祝福が与えられていることを見せてくださる。だからこそ私たちは悩み誘惑が多い中にあっても、なお感謝と共に立ち上がっていくことができるのである。


Q:14節のところでダビデは逃げるという選択肢をとりましたが、戦うという選択肢はなかったのですか。

A:実際にはこの謀反と同時にアブシャロムが心を盗んだ人々も動いているのである。ダビデがサウルから王位を受け継ぎ、戦いを経て勝利し民に多くの恩恵をもたらしたのは事実である。しかし、バテシェバ問題を経てダビデは衰退し続けていた。実際どこまで公になっていたかはわからないが、それでもダビデに近いものほどこの問題について伝わっていたことだろう。そのようなこともあり、ダビデにとって誰が見方でだれが敵かが分からないような状況になっていたのだ。ということは実際にここで迎え撃つということが起こってきた場合、アブシャロムと戦っているうちに後ろから見方だと思っていた人に裏切られ、命を取られる可能性も考えられるのである。だからこそ彼は一時的に逃げ、自分の身方を見極めて整えたのちにもう一度戦う必要があったのだ。
 ダビデと周りの人間の間にある信頼関係の土台は神である。共に神に仕えるような人物でなければ彼は心から信用しない。彼は神を信頼し、人を信頼しここまで生きてきた。神との信頼が成り立っていないなら人との信頼も成り立たないのだ。彼の信頼関係を築き合う仲間は自分が好む好まざるではなく、神が備え遣わした熱き愛を交わし合える相手なのである。ということは、一方で私たちは神から遣わされた者を自分から放してしまわないように注意していかなければならない。神が遣わした者との生きた交わりを通さなければ人と人との本当の信頼を成り立たせることはできない。だからこそ気を付けていかなければならないのである。私たちは神が遣わした者だと思って交わっていたが、本当は無意識に好みで選んでいただけであったり、逆に私たちが嫌っている人ほど神が遣わした者だったりする。それ故、今のうちによく考えていくことが必要である。そのようなことも考えずにただただ好みで選んでいると、自分の晩年の時になって思わぬところから裏切られたりするのである。


Q:礼拝の中で福音にふさわしく生きるということが語られていたのですが、今のお話を伺いながら、ダビデの生き方もそのようなものであったのではないかと感じました。大切なところに神を置き、自分の行動基準が愛から離れてしまわないように整えていくということがやはり大切なのでしょうか。

A:そのとおりである。福音はイエス・キリストの贖いを信じて生きる信仰者によって明らかにされていくものである。だからこそ世に生きる他者に対して私たちがどのように愛を基準として行動していくかによって相手に福音が語られるのである。しかし、人格はいろいろなタイプがあり方法論ですべてがうまくいくというものではない。戦後のリバイバルは聖書をプレゼントし、映画を一緒に見て相手に罪がありイエス・キリストを信じることでその罪から贖われることを指摘し、相手が悔い改めるという一連の導きの方法論があった。しかし、それは戦後という特殊な状況であったから受け入れられたことも事実である。今は同じような方法で行っていくことはできない。方法を相手や時代に合わせ、変えていかなければならないのである。そのため、今は愛ということを根源に行動していくことの大切さを語っている。根源となる愛とはその相手の魂を思うゆえの愛であり、神への愛である。ヨハネの第一の手紙でも神は愛であり、私たちも互いに愛し合うべきであることが語られている。それが彼にとっての愛なのである。私たちの教会では第二教会という場が与えられることを願い、その教会ではより広い対象者へ伝道していくことを目的とし、それぞれの教会においてふさわしいメッセージや、示しが与えられることも願っているのである。


Q:行動基準が愛から離れてしまうことが多くあり、人の言葉に流されてしまうことが良くあります。あとから振り返って愛が足りないなと思うこともあるのですが、どのようにしていけばよろしいでしょうか。

A:まずは常に注意して自分に言い訳をしていかないように気を付けなければならない。またどうしても注意して直したい人は自分に刑罰をかければいい。もちろんそこまでして直したいと考えるならであるが、実際そのようにして徹底して直そうと努力する人もいる。世の中の人で自らの癖などを直そうとしてこの方法を用いて脱し、新しい境地に入っていく人たちも多い。それはあなたが選ぶことだがこれからの生き方を統制していきたいならば、やはり科していくべきである。どっちにしてもその結果を被るのは未来の自分である。あの時ああしていればよかったという後悔も甘んじて受けなければならないし、変えられなかった自分に失望しなければならない。言い訳をいくらしても最終的に責任は自分のもとに帰ってくるのである。  ダビデは起こってきたことの責任は全て自分にあると考え、すべてを甘んじて受けている。誰のせいにもしていないし、自分のバテシェバ問題をはじめとした低迷、機能不全がこれまでの幾つもの問題を引き起こしたのだとしている。そして同時にそれらは全て神のお扱いのもと行われている事柄として彼は受け取っているのである。この世の出来事はすべて神が善しとされなければ行われない。つまり起こっている出来事は神がお許しなったのである。だからこそダビデは神のお扱い、その采配を受け入れたのである。彼がすべてを神に明け渡し、その御心の中で生きているからこそこれから自分がどのような中に置かれていくかということにも神のそ意志を感じているのである。
 信仰者もそうであるが、人生長く生き神の働きをするのか、それとも長く生きる前に御下に帰ってくるようにと示されるかは分からない。どちらにしてもそれらすべては神の配剤である。ダビデもその時々、神の御心に従って最善を生きながらもいつかその御下へと導かれる時を待っている。その時がどのようになるかもダビデにとっては神の御手に委ねられたものであり、例えばこの謀反によって死んだとしても、それも神が選ばれたことだと彼は受けるのである。それほど彼は神の御心の中で生きていた。同じように私たちも神の御心の中を生き続けていきたく願う。


Q:先日の礼拝説教の中でタラントのたとえ話が取り上げられた際、「たとえ自らに与えられたタラントを用いて仕事をして、そこに儲けが出なかったとしても神は私たちの働きを憐れんでくださり、良い僕だと言ってくださるととらえる人がいるが、そのようなことはどこにも書かれていない。それは神の憐れみというものを都合のいい様にとらえ、自分の言い訳にしているだけなのだ。」と語られましたがもう少し詳しく聞きたいのですが。

A:5タラントの者が5タラント儲けてきたという事実がこの例えには語られている。つまり、主人である神を交わりの中で知り、与えられたものを用いてその御心を生きるならば必ず儲けは与えられるのである。ここにまったく与えられるものがないという出来事が起こるならば、それはその人が神の御心を成していないということなのだ。しかし、日本のキリスト者は神の憐れみや、神の慈しみに偏るばかりでこの事実を見ない。自分の怠惰によって一つも手に残していなかったのに、神はそれでも許してくださると勝手に言ってしまう人たちがいるのである。それでいて、あまりにも低迷してくると自分の怠惰を棚に置いて、信仰なんかしていても神は恵みを与えてくれないとか、私の人生を狂わせたのはキリスト教だと八つ当たりするようになってしまう。しかし、それではご利益宗教である。キリスト教はそうではない。神が何でも私たちにいい様に変えてくださるのではなく、神を信じる信仰のゆえに自分に与えられた力を用いつつ、足りないところを神に助けていただきながら、日々自らをイエス・キリストの似姿に変えていくことが必要なのである。そこには私たち自身の努力も必要なのである。  そしてもう一つ、礼拝でこのたとえから語ったことは、「神は5タラント、2タラント、1タラントと差を設けている」ということである。それはその実力に合わせて神が配剤してくださっている事実なのである。しかし、あの人の方が多いとか、私にもそれだけ与えられていれば同じように働くのにという人がいる。それは大きな間違いである。神が与えられたものはそれぞれに十分であり、それが神から導かれたその人の働きなのである。与えられたものを神の御心に従って用いるならば、神がその人に与えられた働きを十分になすことができるのである。だからこそ、5タラント与えられたものは稼ぎも5タラントなのである。2タラントの者の稼ぎは2タラント。2タラント与えられて5タラント求められるわけではない。与えられた量に見合うものを神は私たちの働きとして与えられるのである。私たちは与えられたものを十分に用いて、神の働きに立っていきたく願う。


Q:タラントのたとえの話の時に、先生が「持っていない者から取り上げて持っている人に渡すということはおかしいという人もいるが、そういうものなのだ」と語っていましたが、どのように捉えるのでしょうか。

A:私たちは本気になってキリスト者として生きなければならない。今、社会の中で研究者や物知りといわれる人々が何を語っているか。それは民主主義も資本主義ももう機能不全を起こしていると言うことである。民主主義や資本主義が始まった当初はこのような時代が100年は続くだろうといわれていた。しかし実際は50年ほどですでに後がなくなっている。予想よりもはるかに早い時点で限界を迎えてしまっているのだ。そのくらい時代の移り変わり、流れは早い。そのような時代に合わせて教会内も変動していては、その流れに置いていかれて終わりである。私たちは昨年コロナ禍にあっても教会で変わらずに礼拝を持ち続けた。それは周りから見れば、「何をやっているのか」「おかしい」と言われことかもしれない。しかし、私たちはこの教会に生まれた新しい「たましい」のために1年間通常と変わらず礼拝をおこなった。なぜならこの大切な1年をリモートという緊張感や空気を感じられない中で礼拝をおこない、まったく教会の方々と関わらずにその幼い子どもが1年を過ごしてしまえば、失うものは大きい。特に生まれて間もない大切な時期である。だからこそ、教会の方々にはこの幼い子のためにリスクを担っていただいた。それが80年後の教会の信仰を担保するものとなると信じ私たちは営んだのである。
 信仰によって選んでいく道は一見、世の中の人にとっては悪いもののように見えるかもしれない状況がある。しかし、それは共に生きる者、特に一番近く生きる子どもたちに信仰を伝えるものになる。どれだけ苦しんでいる状況を見せていても一番近いものはそこに通じるものがあり、それを見た者たちに信仰に生きることの幸いを伝えることができる。
 あたかも時代を上手に捉えるために時代に合わせて教会が変わったり、キリスト者が変わったりすることがある。しかし、実際は変わらずにその中に生き続けるものを持ち続けるべきである。これがクリスチャンの独自性であり、愛の冷めた世の中において神の愛を表すとても大切な働きを担っているのである。
 愛するということが欠落しているとすべてのことの効果がなくなる。だからこそ私たちは自分に愛が足らないことを自覚し、愛が足らないなと後悔することができて初めて、対処ができるのだ。それは感謝なことである。反対にそのことすら気づけない人、鈍感な人は周りを不幸にするのである。家の中に愛が流れているか、家庭や周りとの関わりの中にそれらが流れているかをよく確かめていかなければならい。息子にお父さんとお母さんは愛し合っていると思われることが何より大切なのである。


  Q:ヨハネⅠ 3章2節に語られている「キリストのありのままの姿」とはどのような姿ですか。

A:未だそれは明らかにされていない。しかし私たちは直接見ることはできないが、イエス・キリストの姿を福音書の中や、イエスの品性という書籍の中で見ることができている。そして聖書では私たちがイエス・キリストの似姿へと変えられるということが語られているのである。またこのところに語られている幸いはイエス・キリストと直接会うことができるということである。私たちは神という方がどのような存在であるかを列挙することはできない。愛してくださる方と言ってもそれがどこからきているのか、人があの人を好きだと語るように理由や証拠を提示することは困難である。私たちが信じることでのみ、神の存在を立証することができる。ではなぜそのような方を見出し、自らの神とするのだろうか。それは私たちの人生をより良いものへと導きたいという期待に基づいている。
今日、私は仕事を終えた娘を車で迎えに行き、ここまでともに帰ってきたのだが、帰りの道順はいつも同じではない。その時の道路の混雑状況を見ながら、少しでもそっちの方が早いだろうという期待感から道を選んでいる。今日は残念ながら色々な道を通った割にあまり早くならず、娘に「そんなに変わらなかったね」とグサッと刺さる一言を言われてしまった。しかし、私はこのような期待感を持ち続けているゆえに挑戦することをやめられないのだ。人間が信じることや期待感を持たなくなったら渋滞の中をダラダラまっている人生を送ることになる。私たちは神が語られる道を進んだり、少しでも良く生きようと期待して、日々を歩んだりする。そうした中で神の御力が働かれる瞬間に出会ったり、祝福や恵みが与えられて人生がガラッと変わったり、奇跡のようなことが起こったりもする。地上の生涯を何の目的もなく生きていてもそれは悲しくむなしく過ぎてしまう。ただ死という終わりに向かって歩むのではない。信仰者は死の先に続く神との交わりを信じ日々を歩むのである。先ほど私の娘の言葉にショックを受けたと語ったが、逆に近道が成功して早く帰れると「やったね。成功したね」と笑って共に喜んでくれる。共に生きるものは私たちの挑戦とその結果を見ていて、的確に評価してくる。それも信仰の継承という問題においてとても重要なことなのである。
 神は私たちの人生に恵みや祝福をお与えになることは先ほど語ったが、時には10万円を1000万円にしてくださるという劇的なことも起こるかもしれない。もちろんそのようなことはまれであるが、一日の中でわずかに変化していたりすることはよく起こる。期待による挑戦に神は応えてくださるのである。しかし一方で、「挑戦しています。やっていますよ」と言いながら「どうせほかの道に行ったってダメなんだよ」と、世の中の人と変わらず渋滞の中にいるような人もいる。それではわずかな変化すら捉えられない。そのような形だけの信仰は、見ているものにその人の不真実な姿を表すものになる。そしてそれは共に生きるものが失望してしまう理由を与え、ついには共に生きるものがいなくなるという現実も招くのである。


Q:性(せい)の性(さが)ということが語られていましたが、私は仕事の中で男性的な働きに勤めています。職場においてそんな私の立ち位置はちょうど女性と男性の間にあり、男性の気持ちもわかるし、女性の気持ちもわかるのですが、その2つが互いの気持ちをうまく理解できないまま対立しているような状況に効率の悪さを覚え、どのようにしたらいいのかと悩んでいるのですが、どのようにしたらよいでしょうか。

A:あなたは男性の気持ちが分かる女性なので、反対側に女性の気持ちが分かる男性を見つけ、タッグを組んでその人と仕事を効率よくこなす様子を周りに表したらよい。対立したままでは効率が悪いのは当然である。相手の性を理解し、その良い点や足りない点を補い合いながら共に取り組むことでより大きな成果をなしていくことができる。神ははじめからそのように人をお造りになった。互いが尊敬しあい、遜って仕え合う時に多くの恵みが与えられるのである。それは先ほどのタラントのたとえにもつながることである。本来5タラント2タラントが儲けとして与えられるというのはそういうことなのである。神の真意の通りに生きているなら、効率よく働きができ、そこに何らかの儲けが出る。では、そうならないという現実を目の前にしたら、どのように考えるべきか。神の御心と何か違うのだと自らの行動を疑えということなのである。あなたの今いる男女が対立した部署は職場内でもネガティブな印象が持たれているところであると先日言っていたが、多くの人はそのような部署を嫌い、トラブルをどのように回避しようかと思っている。世の中の人の多くはそうである。その状況を改善しようと取り組むのではなくむしろ避けて通る。しかし、本来はそのような問題を乗り越え解決していくときにこそ多くの利益が生み出されるのである。渋滞にはまったまま手を打たずに待つのではなく、なおあなたにもその中で道を選び、取り組み続けてほしい。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)