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キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 東日本大震災を振り返って(2) ~

齊藤 恵一

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
・・・・・・
人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。」
(詩篇 103:1-2,15-16)

  前回に引き続き東日本大震災を振り返ろうと思います。
私は避難所を出てシーサイドバイブルチャペルを目指して海岸方面へとバイクを走らせました。水は引いており辛うじてバイクで走れましたがやはり海が近づいてくると泥が堆積していて進みずらくなってきたので、バイクを降りて歩いて行くことにしました。いつも見ていた道路のはずが津波の影響で変わりすぎていて自分がどこを歩いているのかわかりませんでした。
しかし防波堤沿いをしばらく歩いていると何となく見覚えのある風景に出くわし、ここの角を曲がったら確かあったはずだと思い目を向けてみると教会は跡形もなくなっていました。私は愕然とし夢なのか現実なのかわからなくなりました。この震災が急に現実味を帯びてきました。実際にはシーサイドバイブルチャペルの皆さんは安全な場所に避難され津波で亡くなった方はいなかったと伺いましたが、この時、私は人の死や人の作ったものの儚さを思わずにはいられませんでした。私は自分が死んだらどうなってしまうのだろうか。と思いました。
マタイの福音書24章にも「この天地は滅び去ります。しかし、私のことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべてのものをさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか知らないからです。」と書かれています。
では残された私はどのように今後の人生を歩んでいったら良いのだろうかと思いました。それは御言葉の通り目を覚まして生きることだと思いました。文字通りの肉体的な目ではなく霊的な目が開かれていなければならないと。聖書には過去何千年も前からの歴史の記録があり、そこに神がどのように関わったかを通して、神という方がどういう方であるかを知ることができます。イエス・キリストが地上に生まれ私たちの罪の為に身代わりとなって十字架にかかり、血による贖いを全うされてからは私たちは神と新しい契約を結ぶことができるようになりました。それはイエスキリストが私たちの罪の為に十字架にかかって死なれ葬られ、三日目に死者の中からよみがえられた方であると信じる信仰によって救われるという契約です。旧き契約においてはイスラエルの民は幾度となく神との契約を破り、神の決済を受けなければなりませんでした。これは私自身も同じで罪の中にいた時は神を神とも思わず、自分さえ良ければいい、世的な事に長けて行きたい、悪い事も経験だなどと思って親を悲しませ神をも悲しませていたような者でした。
しかし、このような者の為にもイエスキリストは自らの命を神の前に差し出してくださり、とりなしてくださいました。そして私自身もイエスキリストを信じる信仰者へと変えていただき、少しずつではありますが、信仰者として成長が与えられていることを感謝いたします。
私たちは今の時代を生きる時に本当に感謝な時代に生きていると思います。これだけ救いの裾野が広げられ神の御許に来ることを許されている時代にあって救いを受けずして滅びに向かってしまうのはなんと嘆かわしい事でしょうか。
私自身もより正確にかつ大胆にこの福音を人々に伝えて行けるように聖書を学び、成長を続けさせて頂きたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)