同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-10 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

  「戒め」について学んできました。戒めは過ちに陥らないように、行動を規制することが中心だといえるでしょう。それには「こうしてはいけません。」と「こうしなさい。」ということの両方があります。
 次に「矯正」を考察します。
矯正は既にできあがっているものの欠点を直す、あるいは出来つつあるものの伸びていく方向をを、よい方向に変化させることにあります。ここでは、神の前にどういうものであるかを問われる、「性格」や「品性」、「習慣」「理解」「行動」等に関わることでみこころに沿わないものが矯正の対象になります。
「理解」というのは、神が見たもうように見ているか、神はどうお考えか、みこころを正しく受け止めて分かっていることです。 
「行動」というのは神のみこころを知り、その通りに生きることです。
「性格」「品性」は理解と行動のもとになっているもので、時には「習慣」や誤った理解である「偏見」が影響することもあります。
 以上のようなことを理解し、聖書がその矯正のために重要であると分かっても、自分が何を矯正されなければならないのか分からないままになることがあるでしょう。
 矯正は直されることですから痛みをともないます。ですから、それは嫌だというこころが作用します。
そのため自分一人で聖書を読み、みことばから指摘を受けて自分を矯正するということは並大抵のことではありません。
そのため、信服(心服)している先生がおり、その先生の弟子となり、指導をしていただければ、その道となります。
 また矯正を受ける現場が必要ですが、神はそのために、家庭という場をお与えになりました。 「人が、ひとりでいるのは良くない。」
(創世記 2:18)のです。結婚した男女が、矯正されるところが何もなく過ごすということはまずないでしょう。そして一般論として十把一絡げにできない、一人一人の矯正されなければならない問題が明らかにされ、神のみ手が加えられる場となります。そこに正しく指導してくれる牧師も必要とされます。
 聖書を、教会と牧師を、家庭を、そのように考えていることが大切です。