同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(6) —

野澤 睦雄


「イエスはオリーブ山に行かれた。そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」   イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」」(ヨハネ 8:1-12)

1.救いに至る道

 ・認罪
確かな認罪を持たなくても、人が救いの恵みに与ることがある事例を述べましたが、深い確かな認罪を持つことが重要であることはいうまでもありません。
 認罪、それは自分のこころが光に照らされて、その実態を知ることにあります。
 ヨハネはイエスが「世の光」であることを、読者にわからせるために、「姦淫の女」と呼ばれているこのできごとを引用しました。しばらく教会に通ったことのあるひとなら、みなこの記事を知っているでしょう。もう一度それを読み返し、考察してみたいと思います。
この女以上に女を引き立ててきたパリサイ人たちが重要です。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
そう言われて、彼らは自分に罪があるかないか判断を迫られました。石を投げるべきか、止めるべきか、そういう具体的なことに関連して自分の心を探ったわけです。そして彼らの心は光に照らされて、自分のうちに罪があることを見いだしました。その罪について普段は、気に留めていなかったことでしょう。それが明るみにでてきたのです。光にはそういう力があります。
 残念ながら、このパリサイ人たちは、自分に罪があることを認めましたが、救いの恵みに与るには至りませんでした。「世の光」であるイエスの前から逃げ去ったからです。
 女は自分の罪を認め、死刑になることを覚悟して立っていたことでしょう。彼女は、パリサイ人たちがいなくなったあと、自分もそこから逃げ去ることができました。イエスは地面にものを書いてなにも見ないようにして、そのチャンスを作っておられたからです。
彼女が救いに与ったであろうことは明らかですが、イエスは後の生活に条件をつけられました。「今からは決して罪を犯してはなりません。」と。
この条件は私たちに対しても同一です。救われた人は罪を犯し続けてはならないのです。それはそうしたなら「救いを失う」ことを意味しています。「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ 5:20)を理由にして「人は死ぬまで罪を犯し続けるものです。」などと決して言ってはなりません。それは聖書の教えではありません。パウロはこう続けます。「恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ 6:1-2)
 認罪が確かでないと、その罪を犯すことの重大さを理解できない可能性があります。それで、またもと通り罪に陥ることでしょう。そういうわけで、深い確かな認罪が重要です。
 日本人の多くが、救われる前に深い認罪をもつことなく、救われてから自分の罪を認識するようです。既に救われているので、その罪責感が薄れがちです。「罪の払う値は死です」と迫ってくるものはもうないからです。
 そこを埋めてくださるお方は聖霊です。イエスはこう言われました。
「もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」 (ヨハネ 15:7-8)
「世に」とされていますが、「救われた信者」にも分からせてくださるのです。

やみの中を歩むことなく、イエスに従っていのちの光に歩むものでありましょう。 深い認罪こそが、自分の与えられた救いの恵みの大きさを悟らせるものです。

(仙台聖泉キリスト教会員)