同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(9) —

野澤 睦雄


「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ 4:28)
「奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表すように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。」(テトス 2:10)

1.救いに至る道

 ・具体的罪に対する認罪
  罪について考察したときにも引用しましたが、冒頭のみことばは二つとも救われた信者に対して言っているのです。これは私たち日本人には不思議な感じがします。つまり、日本人は「盗む」ということに罪悪感を感じる人が非常に多いといえます。 冒頭のすすめを受けている人々は、盗みをしてもこころに何も響かないまま生きてきたのでしょう。それが救われても尚、習慣としてそのまま続いているわけです。それに較べ日本人は救われていなくても、盗んだことに罪悪感を覚えるのです。
 ですから、「盗み」の問題は日本人を救いに導く大切なキーになり得ます。伝道という視点からいうと問題点はどうしたら自分が知っている「自分は盗みをした」という事実と向き合うことができるかです。導こうとしているひとが、自分が行ったことと向合った事例であるイエスが用いられた方法が参考になります。
 イエスを陥れる種を得ようと姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきたパリサイ人たちにイエスがいった一言、
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)
は、彼らに自分のうちに罪があるかないか自分で決めなければならないところに追い込みました。そして彼ら全員が自分の内に罪があることを、口で言わなくても、その場を逃げ去ることによって告白したのです。
   盗みについて、同じように私は盗んだことがあるかないか、自分できめなければならないところに立たせるにはどうしたらよいでしょうか。大きな集会で語る説教者なら、
「皆さんは盗んだことがありますか。その人はこころのなかで手を上げてください。実際に立たなくて結構です。」
と語ることができます。
すこし時間をおくとよいでしょう。そうすれば自分が盗んだことがあるかどうかと向き合うことになります。そうしても、それに向き合わない不真実なひとびとには、足のちりを払って、もう関与する必要のないひとびとです。真実に語ったことと向き合ったひとびとには、
「いまこころの中で手を上げたかたは、イエス・キリストの救いを必要としています。」
 ・・・
イエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ 2:17)
・・・
と言われます。あなたがこころのなかで手をあげたとすると、あなたはイエス・キリストに招かれているひとですから。」

 個人伝道の機会があったなら、その場でもおなじことが使えます。
けれども、罪が明らかになったとき、救いを求めるよう導くことができないと、離れていってしまいます。救いの側に導くことができる状況まで、そのかたのこころが「熟している」と読み取れないなら、求道者を、罪を明らかにする場に追い込まない方がいいでしょう。  こういう事例もありました。
私の幼いときからの・・小学校、中学校を共にした・・同級生が、私の住んでいる町にある大学に入って連絡が取れるようになったので、教会の伝道会に誘いました。
ある日の伝道会で、彼が確かに認罪を覚えていることがわかりました。そのときすぐに先生のもとに連れて行って、先生に働きを委ねればよかったのですが、次回またきてくれるだろうと思い、そのまま帰してしまいました。すると彼は二度と伝道会に来ませんでした。 認罪を覚えたそのときが危機の時で、そのチャンスを逃すと光によってこなくなるのです。

(仙台聖泉キリスト教会員)