同労者

キリスト教—信徒の志す—

わかふうふ、わかもん、いっしょに学ぼっ!

— 絆される —

玉城 義

「子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり。」(マタイ  9:2)

 子ども達の夏休みももう終わろうとしています。宿題に追われる日々、私も小さい頃、夏休みの宿題で気が遠くなっていたことが思い出されます。当時の私は最初から出来ないと開き直り、休み中は全く手をつけず、学校が始まってから放課後居残り学習をしていました。私は根っからのテレビっ子で、外で元気に遊ばず、一日中テレビを見て、自分の世界に浸っていました。
 私もキリストと出会い、家族も与えられ、この年齢になって昔よりは少し変わったと思いますが、未だにそれを引きずっている部分もあります。とかく私の性分としては、嫌なこと、不得手なことを後回しにしたり、最初からできないものとあきらめます。自分のルーチンを最優先にして生きている所があり、家庭、教会、職場での人との関わり、コミュニケーションが苦手です。そんな私ですが、教会において、役員の補佐に任命されました。自分にとっては大きな驚きであり、なぜ私がと思いましたが、冷静に考えて見ると私の年相応にすべき責任であると思います。
キリスト者、福音に生きる者として、私が不得手とする人格と人格との交わりを意志しながら率先して取り組んでいかなければならないことを示されています。
 礼拝のメッセージで、マルコの福音書1~12節の記事を取りあげて、中風の人を担いできた四人の人達のことが語られていました。彼等は、わざわざ群衆がまだ大勢いる中で、屋根の瓦を剥がしてイエスの前に吊り下ろしました。
なぜその時そこまでしなければいけなかったのか、群衆が去った後落ち着いてイエスの元に連れて行ってもよかったのではないか、と。でも彼らは、その中風の人をその時なんとかしてキリストの前に運んでいき、救って頂きたい。その熱意が非常識とも見えるような行動をしてまでも、そうさせた事実。キリストの前に運ばれた中風の人は、イエスが彼らの信仰を見て、「子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり」と言われ、救われることができました。
 以前は私も中風の人と同じように、担がれた者でありましたが、キリストの前に運び込まれ、罪を赦されました。
 今、私の教会では、新しく教会をもう一つ建てるということを掲げながら、絆された一人一人が立ち上がっています。
神の御業を仰ぎみたい。先ほどの聖書記事で、彼らのうちの一人が、中風の人を思い、その一人に絆された三人が協力して一連の行動をとったように、私もぜひその一人として協力していきたいと思っています。
「もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。」(エレミヤ書 29:13)

(仙台聖泉キリスト教会 会員)