同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-13 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 矯正について考察しています。イエスの弟子たちが矯正されなければならなかったことをもう一つみてみましょう。皆さんのよく知っていることを、弟子たちの「矯正」という視点を加えて見直します。
「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。」(ルカ 9:46)
この議論はどういう時に行われたのかといいますと、彼らは、
「イエスは、十二人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威とをお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカ 9:1)
弟子たちは、イエスにそのような権威を授けられて、神の国を宣べ伝えてきて報告をしました。
「使徒たちは帰って来て、自分たちのして来たことを報告した。それからイエスは彼らを連れてベツサイダという町へひそかに退かれた。」(ルカ 9:10)
 このあと五つのパンと二匹の魚で五千人に給食された奇跡をみました。
 そして、ペテロの信仰告白がありました。
「イエスは、彼らに言われた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えて言った。「神のキリストです。」」(ルカ 9:20)
その告白の時に教えられたことは、イエスのご自分の十字架の死についてであり、弟子たちにはこう教えられました。
「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」」 (ルカ 9:23)
 そしてイエスは、ペテロとヨハネとヤコブに、ご自分の変貌の姿をお見せになりました。
 そのような一連のできごとの後、「誰が一番偉いのか」という議論が始まったのでした。彼らの「偉い」は、「この世」のものであって、「神の国」のものではありませんでした。ですからイエスは、実例をおいて彼らに教え、彼らの考え、望むこと、彼らが富とすることを矯正しようと努められました。
「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」」 (ルカ 9:47)
 残念ながら彼らはそれだけでは変わることができませんでした。イエスの最後の晩餐の席でもなお、
「また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。」(ルカ 22:24)
のでした。
今回は、弟子たちをこう諭されました。
「すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。食卓に着く人と給仕する者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」 (ルカ 22:25-27)
イエスは、この直前に弟子たちの足を洗って、仕える人の実例を示されました。
 そして彼らがこの世の王、異邦人の王ではなく、神の国の王となることを約束されました。
「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。 わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」 (ルカ 22:28-30)
 神の国では、「仕える人」が「王権を与えられる人」である、とはなんと興味深いことでしょう。
 弟子たちが本当に「仕える人」になって、イエスの「矯正」が実現したのは、ペンテコステの日に「聖霊を受けて」でした。
 これは、信じる全てのひとに与えられるものであって、それが与えられた時、「仕える人」になり、「神の国の王権」を持つ人、すなわち神の国の「偉い人」になるのです。

 もしも皆さんが、イエスの弟子たちと同様に、一方では確かにキリストを信じていても、その富とするものは「この世」にあって、死んだ後天に持って行けない、豊かな収入と蓄財、地位、学歴、信仰を無視した結婚と家庭、・・・が求めているものとなっているのでしたなら、イエス・キリストに「矯正」して頂こうではありませんか。
それらを求めるのは、「主に、いけにえをささげるため」(サムエル記Ⅰ 15:15)と思うかもしれません。それには、自分の動機が本当に何なのかが問われます。
「自分の十字架を負ってイエスに従い」、そして「仕える人」、「神の国の王権を持つ人」にさせて頂こうではありませんか。
それ以上に素晴らしいことがありますか?