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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-124  —

山本 咲


サムエル記Ⅱ 18章

 ダビデは優秀な王であった。歴史上には彼の功績が輝かしく述べられているだろう。それに対して、聖書はただその功績だけを述べるものではない。過ちすらも赤裸々に記す。それは王であっても変わらない。聖書記者たちはそれによって私たちに多くのことを示そうとしている。それは聖言を通して神の独り子、主イエス・キリストを表し読む人が救い主と出会えるように書かれているのである。そのため世にある伝記のように人々の功績が取り上げられているわけではないのだ。また旧約のイエス・キリストがこの世に来られる前にはその姿を表すことや、そのときの神がどのように旧約の時代の人々と直接交わりをなさったのかということを語ることで主の愛や、私たちが信仰者としてどのようなことに気を付けるべきか、信仰を全うしていくためにはどのように日々を歩むのかということを示そうとしているのである。
このところにはダビデの晩年の姿が述べられている。この時、聖書は「彼の息子アブシャロムが謀反を起こしその王権を奪ったが、ダビデはアブシャロムとの戦いに勝ち、その王権を取り戻した」とだけ語るのではなく、そこにダビデのどんな弱さがあったのか、彼の罪は何なのか、そこからどのようにしてもう一度立ち上がっていったのかというように、包み隠さずその事実を取り上げているのである。そのため、ダビデから離れてアブシャロムに民の心が移り変わっているということや、ダビデが初めは戦うことよりもまず逃げるという道を選んだこと。ダビデの友を神は用いられ、アブシャロムに知恵を与えていたアヒトフェルの企てを打ち破られたことなど、それまでの課程を大切に扱っておられるのである。
ダビデはアブシャロムを穏やかに扱ってほしいという思いを自らの部下たちに告げた。しかし、その願いを無視しされた形で、アブシャロムをヨアブが滅ぼしてしまった。それはヨアブが信仰によってことを行っているのではないからこその姿である。そのためヨアブよりも、彼の部下たちの方がダビデの真意を捉えているほどで、それは13節「あなたは知らぬ顔をなさるでしょう」とあるように彼を信じていなかった。
また信仰がなく、その心が一致していないゆえにヨアブはアヒマアツを理解できなかった。アヒマアツは褒美が欲しかったわけではない。ダビデのことを神が守られたという事実を一番に伝えたかったのだ。しかし、ヨアブにとってそれを同じように推し量ることはできなかった。それゆえに、褒美という言葉が出たのである。それ故に生きた彼の結末は決してよいものではなかった。結局信仰ではなく、自分の力に頼り、欲望によってどれだけの功績を残そうとも、最後はそれまでに彼が流した多くの血の故にダビデの息子ソロモンによって滅ぼさなければならないのである。
私たちは信仰者として生き、どのように神を信じるのか、自らの姿が変えられ、その姿によって周りの人にどのような形で証していくのか。最後には何を選び取っていくのかをよく考え、取り組んでいかなければならない。
ダビデもその愚かしさの故、自らの息子に命を狙われるという現実を迎えなければならなかった。しかし、彼は最後まで神に自らを捧げ続けた。そのゆえに神は彼をその危機から救われたのである。


  Q:先日の礼拝の中で、「癇に障る」と「感に触る」ということが語られました。良きサマリヤ人のたとえ話を聞いた律法の専門家が、イエス・キリストに対して、言い返して自分の隣人とはだれかと聞いたのは癇に障ったからだといわれていましたが、詳しくお聞きしてもよろしいでしょうか。

A:癇に障る(感に触る)ということのゆえに私たちにはそこから変化が与えられる。生きている中でそのように変化していくことが必要になるということを語った。特に神は私たちの霊感にさわられる。それによって私たちは変化と共に成長していくのである。先日の律法の専門家のことは、彼が「天の御国に入るにはどのようにすればよいですか」という質問に対してのイエス・キリストの答えは「律法には何と書いてありますか」である。イエス・キリストは決して答えをすぐに語られない。そして彼に質問をし続けることによって彼を導こうとされているのである。
律法の専門家は「自分は素晴らしい律法の先生だから、天の御国に入れる」と考えていた。しかし、イエス・キリストの回答は決してそれを確定させるものではなかった。むしろ、質問を通して、あなたは隣人を愛していないと示されたのである。彼は確かに律法の知識として正解を知っていた。しかし、決してそれを行うものではなかったのだろう。だからこそ、イエス・キリストに「それを実行しなさい」と語られたとき、「知っているならやりなさいよ」と皮肉を言われたように思って癇に障った。彼はこの時、自分が実際知っていながら行わなかった事を自覚させられたのだ。だからこそ彼の続く質問は「自分の隣人を聞きいて」自らを正そうということが目的ではなく、逆襲するように答えにくいだろう質問をしたのである。
それに対してイエス・キリストは良きサマリヤ人のたとえ話をしたのだ。始めに強盗に襲われた人を見て逃げた祭司とレビ人は神に仕えているものである。しかし、神に仕えている人でありながら彼らは助けることなく、神の御心を行うことなく逃げた。対して、強盗に襲われた人を助けたのは、サマリヤ人であった。当時サマリヤ人はユダヤ人と異国人の血が混ざった者たちとして、劣るものとユダヤ人たちにはとらえられていた。そして、更に信仰もしっかりとしたものではないと見下されていたのである。しかし、このたとえ話の中では、祭司やレビ人ではなく、サマリヤ人が天の御国に入れるものとなった。その答えはいかにも皮肉でありしかも、律法の専門家の「私の隣人とはだれですか」という質問の答えとして「誰がこの人の隣人になったか」という問いを投げかけた。結局、困っている人、助けを求める人の隣人になろうとしたかということが重要なのである。自分の周りのだれがではなく、近くのこの人というものでもなく、私たちの手の届くところで助けを求めている人のことであり、その人を私たちが心から愛することなのである。これを聞いた律法の専門家がその後にどうしたのかは書かれていない。大切なことは最後に開き直るか、この言葉を聞いて自らをもう一度整えるかである。聖霊が私たちに伝えること(感に触られること)をどのように受け取っていくかというところが私たちにとって最も大切なことなのである。 周りの人の言葉を聞くだけのものではなく、私たち自身の心がそれによって変えられていくことが必要なのだ。またそのためにも、聖言を捉え、祈り、自らを変えていくのである。
神は私たちの変化を通して、関わり方も変えていてくださる。それは私たちの周りの人たちを通して直接的に霊感や癇に触られることを通して行われるときもある。だからこそ、そのような時に与えられるものを取り逃さないようにしていきたく願うとともに自分が信じたもののみを信じていくのではなく、固定概念にとらわれてしまわないように多くのことについて広い視野と信仰をもって物事を捉えていかなければならない。
ヨアブの部下たちはダビデの心と一致することによってダビデと同じ信仰を持った。彼らはダビデのそばでその祈りを聞き、その神への姿勢を見た。そしてそこに共にいさせてくださいと自らをその信仰にねざしていった。だからこそ、その勝利のために仕えると同時に、アブシャロムの命を取ることをためらった。またアヒマアツはダビデが喜んでくれると思って一早く伝えに来た。しかし、ダビデが一番聞きたかったことはアブシャロムのことで、彼はその答えを持っていなかったゆえに、追いやられてしまったところが取り上げられている。アブシャロムの生死ということがダビデにとって一番肝心の所だった。しかし、本来信仰者として私たちが一番初めに大切にし、喜ぶことはこの戦いにおける神から与えられた勝利なのだという事実がこのアヒマアツの行動からわかる。ダビデはこのところでアブシャロムのことを気にするあまりに今までダビデと信仰を共にしてきた者たちと喜びを心からこの時点で分かち合うことはできなかった。そこにダビデの弱さも描き出されている。ただアヒマアツから伝わるこの信仰を共にする者たちの喜びの姿勢は私たちが教会などを通してつながる信仰者同士の交わりの中で得られる最大級の祝福であることを示しているのである。


Q:今日開かれたところで、クシュ人とアヒマアツの回答の違いやそれに対するダビデの応答が書かれていますが、アヒマアツはその喜びをダビデと分かち合うことができず、わきに置かれてしまいます。私たちはダビデのようにこうしてほしいと伝える側であることや、逆にその願いをかなえようとするものであること、またはその人から頼まれた人である場合など様々だと思います。このところでアヒマアツはダビデにどのような思いを抱いたのだと思われますか。

A:聖書の読み方もあるが、その事実を捕らえようとするならば、アヒマアツは戦いそれ自体が勝ったということを知らせたかった。そしてそれが、神より与えられたものであることを知らせたかったのだ。彼にとってそれ以外の情報はヨアブによって遣わされていたクシュ人が告げるという思いもあっただろう。ただ、彼は何よりもまず、この喜びを共にしたかったのだ。対して、クシュ人はヨアブによって告げられたことをすべて、ただ言われるがまま伝えた。この時のヨアブにはダビデがどのように願っているかがわからなかった。だからこそ、まずは戦いを完全なる勝利で終えたこと、そのためにアブシャロムの命を取ったことを伝えたのである。しかし、それに対してダビデがどのような思いを抱き、自分が取とった行動に対して評価を下すのかはヨアブには全く予想もつかなかった。その中で遣わされたクシュ人と自分から報告に向かったアヒマアツの違いは、信仰をもっていたかどうかだった。アヒマアツは信仰を共にするゆえにダビデが戦いに勝利すると同時に、アブシャロムの命がとられないことを願っていたことを知っていた。だからこそ、彼はその問題には口をつぐみ、言及しなかった。しかし、ヨアブは勝利するという目的をかなえるために何の迷いもなくアブシャロムの命を取った。彼の部下たちがダビデの思いを改めて伝えたにもかかわらずだ。結局ヨアブの行動はダビデに献身しているように見えて、実は自分の身を守るためであり、自分の利益のためである。例えば、誰かが家を建てるにあたってその依頼をしたとしよう。図面から読み取って実際に工事を指揮するものや指示された通りに働く者たちがいる。依頼主はダビデで、工事の指揮を執ったのがヨアブ、指示され働いたのがアヒマアツとクシュ人だ。ヨアブは依頼主ダビデの要望の通りに起こされた図面を見ながら考える。依頼主はここに配管を通せというが、安全面でそれはできないからこう作ると指示を出す。指示されたアヒマアツはダビデという依頼主を知るゆえにあの人はこうしてほしいと思っていたけどその願いはかなえられないのかという思いを内に抱きながらこの働きに当たるだろう。一方でクシュ人は言われたままヨアブに支持される通り作ったのだ。このような関わりの中、誰が本気でダビデを思っていただろうか。それができたのは彼の願いと信仰を知っていたアヒマアツだったのである。ヨアブは結局ダビデの心を推し量れず、その思いを心から共にすることができなかった。結局は利益による関係性でしかなく、そこには信仰も愛もなかったのである。私たち信仰者も神の前にすべて捧げていけるかということが重要になってくる。神の前に本気で生きるとき、信仰者同士も互いを思う愛によって心を一致させていくことができる。その中で作り上げていく関係性や、携わる働きにこそ本当の喜びがあるのだ。一方で自分本位の信仰、もはや、信仰ですらないこの様な姿は見抜かれてしまう。私たちの心がどのようなものであるか気を付けてよく見ていかなければならない。そして、必要ならば悔い改め、自らの心根を変革していかなければならないのである。なお心していきたく願う。


Q:イスラエルというと神の民というものであり、継承された名であるととらえていましたが、今日開かれたところでは、アブシャロムにつく民がイスラエルと呼ばれています。神の御心とは違うところに自らを置いている彼らがイスラエルと呼ばれているのに違和感があるのですが。

A:私たちはそれぞれの思いを持ち自分こそがその根幹を担っていると思い立つ。しかしそれは大きな勘違いである場合もある。特に今回のような身内の戦いの場合はそうだ。だからこそ神の英断が下る必要がある。もちろんだからと言って勝った方がすべて神の御心かというとそうでない場合もあり100%そうであるとは言えない。ただこれを当てはめていくと片方がイスラエルで片方が神の陣営なのである。この二つを聖書記者は読者にわかるように書き分けてこのように記しているのだ。両方ともイスラエルであることは確かだ。そのためここでは特に民の内から多くが加担していたアブシャロム側がイスラエルと呼ばれているのである。このような戦いの方法を選んだのはアブシャロムである。アヒトフェルが逃げたダビデを今すぐ追いかけていって打てばいいと提案したのに対し、アブシャロムは全軍を率いて王としてあなたが立って打ちに行くべきだと提案したフシャイの策を選んだ。彼は全軍を率いた王らしい全面戦争を望んだのである。これまでアヒトフェルが講じてきた策はイスラエルの民を味方につけ、アブシャロムがダビデを上回ったと示すような行動であると同時に、完全なる対立の姿勢を表した。それは身内で争っているがゆえにどちらの側につくのかと民に迫るものであった。そして国内の情勢を味方につけたうえで、体制を立て直す前にダビデを打てばアブシャロムは王として完全に勝利することができた。しかし、このアヒトフェルの策は神により遣わされたフシャイによって打ち破られることになった。話をもう一度、民に向けていきたい。彼らはどちらにつくべきかを迫られ本気で悩んだ。自分が生き残れるように、少しでも多くの報酬を得られるようにと選び、多くのイスラエルの人々はアヒトフェルの謀とに乗せられ、アブシャロムの力に身を寄せることにした。一方でダビデには同じ信仰をもち、その苦難を共にする人々が味方に付いたのである。本来宗教のことはそれによって考えていかなければならない。しかし、一歩間違うと私たちは神の御心を捉えられなくなる。いかにもアブシャロムの方が力もあり、ダビデが堕落していっているように見える。そのような世的な強さ、知恵によって得ている力を誤ってとらえるのだ。しかし、正しくこのことを見ていくならば、そこに神の御心がどのように働いているのかを見ることができる。アブシャロムの行動はアヒトフェルによっていかにも力あるものの姿を表しているが、その行いは決して神が許すようなものではなかったのだ。この出来事を通して神はイスラエルの民の心に触れられ、彼らの本質というものを明らかにされた。この時代、民はダビデの支配のもと、長らく安定し穏やかに過ごしてきていた。それは本来喜ばしいことである。しかし、民はその安定に飽き、神がダビデを通して与えられている祝福を当たり前のものと思うようになっていた。そのうえ逆に代わり映えしない日々の中に刺激を求めていたのだ。この姿から彼らの信仰は育まれるのではなく、穏やかな日々の中で怠惰に過ごすようになっていたことが分かる。だからこそ民の多くは信仰ではなく、利益や目先のものにとらわれアブシャロムにつく結果となったのだ。逆にダビデ側は少数だったが、確かに信仰を持ち、神が御心を成されると信じて歩んでいた。だからこそヨアブは理解できなかったが、アヒマアツのように信仰によってダビデと共に歩んだ者たちは心からその勝利を喜んだのだ。


Q:先日仕事場で嫌なことを言われ、それから相手の態度がとても気になります。私の方でも最初は癇に障られたと感じ、ムッとしたのですが、そのままの態度で接してはいけないと示され、信仰の姿勢として相手がどうであろうと悪を返すのではなく、あいさつなど欠かさず行うようにしています。突然きた相手の否定的な対応に対して対峙していく際にどのようにすればよろしいでしょうか。

A:社会の中ではそのようなことがある。何も悪いことをしていないのに相手から嫌な対応をされることや、なぜこのようなことが起こるのだろうと悲しむこともある。しかし、それは一面私たち自身の人格を形成していくものである。さきほど最初はムッとしたけど、そこからの態度を改めたことなどがまさにそれだ。このようにしてつくられ育まれていくものが本来私たちの個性であるべきだと私は思う。しかし、人は変わらない自分の本質のみを個性と言いやすい。「これが私の個性なんです」という言葉は相手への脅し文句で、結局自分を変えないことへの理由付けになっているのだ。相手の問題だと思っているうちは自分を変えられない。だからこそイラっとしたり何らかのことが心に引っかかったりしたときにそれをどのようにして扱っていくかが大切になる。それによってこそ私たちが形作られ、変革へと導かれていくのである。そのことが分かってくるとイラっとしたことや悲しいことは決してそのまま負の印象で記憶に残らないようになるのだ。
イラっとするのが嫌だったら一人になればいい。ただ私は一人だったとしても最終的には人ではなくとも暑さや、周りを飛ぶ虫にイラっとする。それは無くなるものではない。だからこそ、そのイラっとしたものをプラスの力に変えていくことが必要なのである。私たちクリスチャンは神によってそこから逃げずに戦い続ける力が日々与えられていて、その苦しみを語らいあう信仰の友を与えられる。神はそのような方法を通して私たちを慰め励まし力付けられる。私たちが体を鍛えようとしたとき、より効率よく鍛えていくにはある程度の負荷が必要になる。同じように私たちの心も負荷を受けて強くなっていく必要があるのだ。なお悪に負けることなく、取り組んでいってほしいと願う。


Q:先日のメッセージの中で思い通りにならないことで成長していくということが語られていたのですが、私は日々の中でどうしてと思うことや、恐れにとらわれてしまうことが多いです。そして成長したいと思いながらも、本当に成長しているのかと不安になります。どのようにしていったらよいのでしょうか。

A:人間は体裁を整えている必要のある領域と、自分の正直な姿を出す領域がある。それによって自分が今どこにいるのかという立場を表すところになる。建前でいる部分と自らの心を赤裸々にさらす部分、例えば家庭などで夫婦が語り合うことがそれにあたる。家庭の中ではその自らの心を赤裸々にさらすことで、相手に自分の思いを受け止めてもらいながら、その弱い部分を愛して、包含してもらうことが必要なのだ。そのようなものが私は教会やクリスチャンホーム内にあると考える。それが神の民にとって大切な部分になるのである。確かに教会の中でも一面体裁を整えていく部分もあるが、自分の姿を正直に表していくことも必要なのである。それは互いが、相手の弱さや、足りなさ、つくろっていない正直な姿を受け止め合い、そこで本当に心から相手を認め歩み合うことで真実な関係を築き上げることができるからなのである。その相手との交わりが社会とは違う関係性を作り出すのだ。そうでないと、いつまでも教会でも取り繕った姿で生きることで、外と家との間にギャップを感じ、本来ならば心からふれあい、支え合うはずの信仰の友との間に距離があるというように感じてしまうものになる。それは結果的に良き関係に至らない上に、いつまでも最後は他人行儀で本当の姿をさらさない繕ったものになってしまうのである。


Q:今日語られたところのダビデの心境はどういうものだったでしょうか。

A:本当はこの勝利を心から喜ぶべきだったが、彼の心はアブシャロムの死にとらわれ、私の方が代わりに死ねばよかったのだともいえるような悲しみにあふれていた。ただ、私たち信仰者にとってそのようなこともありうる。そのなかで私たちが最終的にどのような姿勢をとるのかが重要である。自分を喜ばせるために生きていくのか、それとも神を喜ばせるために生きていくのか。それは片一方で愛する者が死ぬということをも受け入れなければならなかった。しかし、ダビデはここで捨てられても仕方がない自らを赦し救われた神を愛し、仕えていくことを選び取っていったのである。その断罪は厳しいものだった。ただ、それは愛するものを救う道である。愛する者が厳しくも相手を突き放すことで、その衝撃から突き放された者たちは愛ある道に戻ろうとするのだ。私たちはなおもこれが救いへと至るきっかけとなることを願い信じ、歩み続けていきたく願う。


Q:ダビデの嘆きの姿は愛の姿であり、イエス・キリストが「エルサレム。ああエルサレム」と嘆いた姿に重なっていると感じさせられました。

A:信仰によって私たちの価値観は形成される。私たちの価値観が私たちの信仰を表すのだ。それは先ほどまで語られていたような生きる上での厳しさであり、悲しさや苦しみを受けるかもしれない。ただ、それを受けることを大前提としていながら、なぜ語れるかというと私たちの生が決してこの地で終わるものではなく、天の御国へと続くものとなると信じるからである。神は私たちのために都を用意してくださっている。そのために私たちはこの世での苦しみを先にある喜びのゆえに受けることができるのである。またイエス・キリストは死に勝利され、その姿を信仰者に表した。その姿によって私たちも同じようになるということが示されたのだ。それはどこから同じだろうか、死によって復活することだけだろうか。それは違う。時にはイエス・キリストの十字架の苦しみと同じように苦しみ、悲しみを生きなければならない。しかし、それでも最後のとき私たちはキリストと同じ喜びにあふれる信仰の姿を世において表すことができるのである。私たちの教会にもすでに天に召された兄弟姉妹がいる。しかしこの別れは一時的なものである。天の御国でもう一度共に歩ませていただけることを信じ、なお私たちもこの世に在って信仰に生き、勝利を収めていきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会牧師)