同労者

キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 知識と信仰 —


   聖書に書かれていることを知っただけで、つまり知識を得ただけでそれを信仰と錯覚するのではないでしょうか。
 知識と信仰の差が分かるよい事例が皆さんのよく知っている聖書中のできごとにあります。
「さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。
「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。・・・」」(マタイ 16:13-17)
 弟子たちはひとびとがいっていることを知っていました。
「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、・・」
これが知識です。
ペテロの答え
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
は信仰です。

 聖書を読み、書かれていることを知っても、こころの中で、
「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、・・」
と同じ位置にそれがあったなら、聖書の知識を得たに過ぎません。

繰り返しになりますが、聖書には神のすばらしいお約束がたくさん書かれています。
それを読んで知っているけれども、それを、先の「・・という人がいます」と弟子たちが答えたのと同じ位置に置いていたら「信仰」したのではなく「知識」を得たに過ぎません。

「私は天地の造り主、全能の父なる神を信じます。」と礼拝ごとに唱えても、神が奇跡を行われるお方、全能者であると信じていない人々がたくさんいます。
これはいったいどういうことでしょうか。使徒信条のことばを知識として知っているに過ぎないということでしょう。信仰告白ではないのです。
 イエスは最後の晩餐のとき、「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。」(ヨハネ 14:27)と言われました。このイエスのことばを信じますか?それとも知っているだけにとどめますか?
これは不信者でなく救われている人が対象です。信じる人にはそれが与えられるでしょう。信じない人は知っているだけで、
「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。」(エレミヤ書 6:14) 人になるでしょう。
聖書のみことばについて、自分は信仰しているのか、知識のみにとどまっているのか、自分のこころの内をよく観察しましょう。

 知識も必要で大切なものですが、信仰と知識を区別して把握していましょう。