同労者

キリスト教—信徒の志す—

聖書研究

— 救いについて(8) —

野澤 睦雄


「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。・・・取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」(ルカ 18:10-13)

1.救いに至る道

 ・具体的罪に対する認罪
 自分が、「いつ」、「どこで」、「誰に」、「何を」、「なぜ」、「行った」か、それが具体的罪です。それを自分が知っていてもこころに届いていない、認罪の思いがない、それが問題です。
 自分がより深く神の救いの恵みに与るためにも、どなたかを救いに導くためにも、「こころが砕ける」認罪の思いは重要です。もちろんこれまで述べてきたように、深い認罪がなくても、罪を具体的に告白し、イエスを信じるなら救われます。冒頭に掲げた聖句を引用した理由は、パリサイ人と取税人との比較ではなく、取税人が、こころが砕けた状態で神殿に来て神に祈った点にあります。

 ここで述べようとしている本題からはずれますが、キリストを受け入れ、キリスト者になろうと「決心」をすることで、罪を言い表すことに代えてはなりません。私自身がそれではだめであることの経験者です。そして洗礼も受け教会員になりましたが救われませんでした。決心することを否定しているのではありません。それはよいものです。けれどもそこで救いを求めることが止まってしまったら問題です。きっと決心だけで本当は救われていないのに、教会員となりキリスト者であるつもりの人がたくさんいることでしょう。

 私は大学生であったとき、献身し教会の働き人になろうと思っていました。それで4年生のとき半年ほど、献身者として牧師の家で一緒に生活しました。そのとき先生から、献身した後で必要となる技量のひとつとして、求道者の扱いの事例などを教えていただきました。もちろん、ご本人が集会や個人的な談話の中で証をした事例以外名前は存じません。その事例のひとつですが、こういうことをうかがいました。

 「キリストを信じ、献身し、伝道者として立っていこうとしたある兄弟は、いざそれが実現しそうになってきたとき、不安に駆られた。自分にはこころ砕けて、涙と共に悔い改めた経験がない。・・・と。
それで先生が「あなたは盗んだことがありますか」と聞いたら、「万引きしたことがあります」との答え。「その店に、謝罪し、弁償したのですか」と聞くと、「していません。」先生が、「いますぐ行って謝罪していらっしゃい」というと彼はすぐ出て行って、万引きしたことの謝罪をしてきた。戻ってきたとき彼は先生の前でこころ砕けて涙と共にもう一度悔い改めをすることができた。」

 この方は順序が逆になりました。罪に気づき、こころ砕けて、涙と共に悔い改めて、救われるのが普通です。神は既にこの方を救っておられただろうと思います。しかし、改めてしたこの経験は、救いを確かなものとするかけがえのない経験です。読者の皆さんのなかにも、盗んだことがあるけれども、謝罪していないひとがおられたら、この方に倣うことをお勧めします。そして先生かしかるべき兄弟とそのできごとを明らかにして祈りをともにすることです。

 さきに述べたように、律法は罪を分からせるためにあります。
・わたし以外のものを神としてはならない。
・偶像を造ってはならない。
・神の名をみだりにとなえてはならない。
・安息日を聖としなさい。
・父母を敬え。
・殺してはならない。
・姦淫してはならない。
・盗んではならない。
・偽ってはならない。
・貪ってはならない。

 私たちのまわりのひとびとは、具体的な罪としてどのことを行っているでしょうか。
 神が、第一のもっとも重大な罪とされる神以外のものを神とする罪を、そのような重大な罪として認識しているでしょうか。
神社、仏閣につまり日本神道、仏教に慣れ親しんで育ったひとびとに、偶像礼拝は罪だと教えてみても、彼らはそれが罪だと悟らないでしょう。

他のことで紹介したことのあることですが、もうずいぶん前のことになります。娘たちが通った幼稚園の園長はアメリカ人で、国に帰ると教会の説教に呼ばれるような人でした。献身して伝道者になりたかったのだけれども、所属する宣教団体の資金が足りない。それで献身をあきらめて自分は幼稚園を経営し、資金を提供することにしたと言っていました。彼は結婚もせずにその仕事に専念しました。
彼はこんな事例を話してくれました。

「スライド(映像)で日本人が神社、仏閣に参拝する様子を見せ、この人たちは天国にいけますか?と質問した。すると聴衆はいっせいに「ノー」といった。では、偶像礼拝だけでなく、姦淫してはならない、と神は言われます。姦淫しているひとはどうですか?と質問すると、シーンを静まりかえって、答えがなかった。その答えは、二度と説教に呼ばれないことで返ってきた。アメリカでは姦淫が行き渡ってしまっていて、取り上げることはタブーになってしまっている。日本がアメリカの後を追っていることを憂えている。」と。
 
アメリカ人にとって偶像礼拝は「ひとごと」と感じ、姦淫の罪に触れることは、お断り、日本人には両方共罪を覚えさえることが困難になっています。どうしたら「こころ砕ける」に至るでしょうか?

(仙台聖泉キリスト教会員)