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—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-125  —

山本 更


サムエル記Ⅱ 19章

  アブシャロムの謀反による戦いが終わり、その後の処理が書かれているところである。ダビデにつくものと、そうでないのものとで大きく国を二分した戦いが終わった。私達も普段の生活の中、このように二つの間で揺るがされた時、どのような決定をしていくか、どこに自分の身を置くか、どう行動していくか問われる。そしてそれは私たちが本当になにを信じているのか何を考えているのか、自分たちが何者であるのかを浮き彫りにする。常時であれば私たちは自らを覆い隠して取り繕うことが出来るがここで書かれているような非常時にこそ、いかに自分の真実な姿が露見するかを恐れなければならない。それが私達信仰者にも問われている。 二つあるいはいくつかの中で選択を迫られ、明らかに選ぶべきものが分かっているならいいが、そうでないとき私たちは本当に迷う。真の信仰とは究極的にはその選ぶべきものを神の御心と一致させなければならない。自らの思いではなく優先しなければならない神の御旨を探り、それに基づいて選択をする。言うことは簡単だが、では神の御心とは何なのか。どのようにそれを知るのか。そしてそれをどのように行っていくのか。日々の生活で問われている。正解かどうかはっきり分かるようなものでもなく、誰かがテストのように点数をつけてくれるものでもない。けれどもその最後の時、裁きの時に神の清算があることを私たちは知っている。 普段は隠れているような人の覆われている部分は問題が起きた時こそ明らかになる。 ダビデのこの問題もバテシェバの出来事を通して行われたダビデの不祥事の事後処理に端を発している事柄である。長いダビデの王政のなか、国が膠着状況にあり、ことが淡々と進んでいる。では民に不満がないかというとそうではない。見えない中で民がダビデ王に飽いている。そのようなときにアブシャロムという人物が起こり結果的にイスラエルの民がどの様な信仰にいきているのかを問われた。 物事が解決したから、思い通りになったから何か素晴らしいことが成ったから神の御心がなされたのではなく本当に神の御心が成るというのはどういうことなのか。ここで書かれている一連の出来事を登場人物すべてが、これが御心であると思って生きているのではなく、無我夢中で生き抜こうとしている。そのような出来事の中で聖書記者はヨアブの言葉として6節に「あなたの敵、あなたの憎むもの、あなたを迫害するものを愛する」ことがそれとして示されている。このことを語った本人がそれを理解していたはずはない。またダビデもこれは神の御心だと思い理解しことを行ったのではなくアブシャロムの死を嘆き悲しんでいただけである。そのためダビデと共に戦った家来たちも勝利したのに戦場を逃げ帰るような姿勢をとらなければならなかった。しかしここに私たち信仰者が隣人と共に生きるということで御心を行うものとなるのである。神を信ずるお互いが集いとして共に生きる時、本当のダビデとその家来たちのような互いに隣人に仕える姿勢をもってなされるのである。大切なことはすべてスッキリ、これが神の御心だと受け入れられるようなものではなく、どうしたらよいのかという迷いの中でこそ導かれる。神は不思議なようにそこに真実に歩もうと信仰の姿勢で臨むものに御心を表してくださる。これが神の御心だと言って自分のしたいことをまぜこぜにしたり、これ見よがしでそのことをするようなものではない。


Q: 礼拝のメッセージの中で「惑わし」ということが語られているのですが、自らに迫られる選択の時、何を大切にしていけばいいですか。

A: 選択することは簡単だけれど、事を行っていくとき成功させるためにいかに下積みし、備えをしていくか。私たちの生活に求められているのはこれをいかに信仰と共に綿密に進めていくかである。選択に惑わしがあると思いやすいが実はそれを決定しても行えない実情に人は嘆くのである。信仰の志を進めていく過程で惑わしというものがある。事を行っていく過程にある自らの怠惰によく注意して先を見据えておかなければいけない。正解を選べたとしてもその過程でつまずいていたらその結果は実を結ぶことはない。良い結果を求めるのであれば自らの怠惰を取り除かなければならない。しかし長い人生の中で身についたそれを是正することは困難である。しかし本当に自らを是正ししようと思うならそれはいつかれでも始めることが出来る。そしてそこにこそ神は働いて変革をもたらしてくださる。


Q: マタイの福音書で「ナザレ人なるイエス」という称号が付けられていますがそれにはどの様な意味あいがあるのですか。

A: ユダヤ人にとっては北のはずれにある田舎のナザレのものだという偏見による呼び方である。馬鹿にするような呼び方をしている。そのようなナザレの中で弟子たちが見いだされ、そこでイエス・キリストの奇跡が多く為されたことも事実である。イエスをキリスト、救い主として捉えようとするのならば聖書に書かれているような一つ一つの行いの中で見出すことができる。


Q: イスラエルの民はダビデの政策に飽きてきたというのはどういう意味ですか。

A: イスラエルの民が王を求めた理由は自らのために何をしてくれる?というような考えやご利益的な思想によるものである。今日語られたところでも自らの為に王は何をしてくれるのかという考えで事を行っているからダビデが不信仰であるとか悪いということではなくイスラエルの民がその時から何も変わっていない姿が見られる。この記録で一貫して語られているのはいかにして神の御心に近づいていくかということである。真の神の民として歩もうと願うとき見えてくるのはいかに自分が間違っているか、くるっているかである。それが目の前の突き付けられた時どうしていくが大事になる。開き直ってもうどうでもいいと言ってしまうのではなく謙って自らを悔い改めて歩んでいかなければならない。


Q: エレミヤ6章14、15節「それゆえ、見よ、その日が来る。―主の御告げ―その日にはもはや、『イスラエルの子らをエジプトの国から上らせた主は生きておられる』とは言わないで、ただ『イスラエルの子らを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた主は生きておられる』と言うようになる。わたしは彼らの先祖に与えた彼らの土地に彼らを帰らせる。」は具体的にどういう状況ですか。

A:エレミヤの時代はもう滅びを待つ状況で、神の神殿があることや神の箱があることの故に神はこの都を滅ぼすことはないだろうと勘違いしているが、神はそこにいる人格の故に滅びるかそうでないかを決められる。このように神の御心を人は勝手に勘違いして自分のいいように解釈してしまう。  それに気づかないまま滅びの道を進んでいってしまうことは大変恐ろしいことである。かえって自らのしたくないことや苦手なものにこそ取り組むことが神の御心である。 光明牧師は嘉納牧師に「自分のやりたいことは最後にしなさい。まず、やりたくないこと、苦手なことを選びなさい」と教えた。それはそこにこそ神の御心があるということであり、人間が神の御心を勘違いしないようにするために大切なことである。

(仙台聖泉キリスト教会伝道師)