聖書研究
— 救いについて(10) —
野澤 睦雄
「ヨハネが捕らえられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(マルコ 1:14-15)
1.救いに至る道
・悔い改め
自分の罪を自覚し、それに圧倒されて涙と共に悔い改めることができたら、救いは手の届くところにあると言えるでしょう。これまでに、そうでなくても、悔い改めがなされるなら、救いに至ることができることを述べてきました。
「福音を信じなさい」とイエスは言われました。福音とは無限の広がりをもっている神の人間に対する恵みですが、ここではその中心である、イエス・キリストが十字架の死によって私たちに救い、つまり罪の赦しと新生のいのちをくださることを考えればよいでしょう。信じるとはそれが、自分に与えられると信じる=受け取る、と思う、と数えるなどとも言われますが、それを信じるのです。
これまでに述べてきましたように、この「信じる」は自分で信者になろうと「決心する」ことではありません。洗礼を受け「教会員になります」と人に公にすることでもありません。「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ 10:10)
救いに与るためには「心に信じ」ることができなければなりません。
「悔い改めて福音を信じなさい。」
この悔い改めることが「心に信じ」ることができる鍵です。
悔い改めは「事務的」になされるとよいのです。
事務的とは、自分を断罪する位置において、「私は、いつ、どこで、だれに、なぜ、なにをしたか」を神に告げることです。たとえそれが全部整えられてなされまくても、こころから神に告げることができるなら、神はそれを受け入れて「福音を信じ」させてくださるでしょう。
神のなさることは千差万別で、すべての人を同一にお扱いにはなりません。救いに与ったひとびとの証しも皆それぞれ違っています。しかし、罪を言い表して悔い改めることとは違う道で救ってくださいと神に願うことは愚かです。「悔い改めて福音を信じなさい。」と言われたイエスは、そうするならならず救ってくださるのですから。
悔い改めて罪を赦され、新生の恵みに与ることをしないまま、キリストを受け入れますか、はい、受け入れます、という問答のみで求道者を教会に受け入れたなら、決心しただけで救われていない信者が増えるでしょう。
「罪を言い表すこと」は、ひとが通りたくない「狭い門」です。イエスがその門を広くすることはありません。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネⅠ 1:9)