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キリスト教—信徒の志す—

ショートコラムねだ

— 聖書を読むは楽し —


 私は皆さんを聖書通読に引き込もうと思っているのです。聖書を読む時間がないとする理由はたくさんあるでしょう。時間を他のことに使う原因に、他の事の方が楽であったり、面白く感じたりすることもあるでしょう。ビリー・グラハムは著書「神との平和」の中でこう直言しています。「皆さんが新聞を読む時間をちょっと割いたら、聖書が読めます」と。当時の娯楽は新聞であったらしい。今はテレビやスマホが中心でしょうし、これから先また違ったものが時間を使う原因になることでしょう。
 ですから、私は皆さんにとって聖書を読むことが、新聞、テレビに勝る楽しい時間になることを願っています。仕事、スポーツ、娯楽などの何かやり続けていることが、続けられる為には、それをやっていて楽しいこと、向上を感じられること、あるいは利益を得ていることなどが必要です。
 聖書を読むことによって霊的な利益を得るのですが、それは目に見えませんし、読まないことは食事の偏食みたいなもので、特定の栄養素が欠けるけれども、一日、二日あるいは何週間、何ヶ月も、何の変化も感じないことがあります。しかし、長く経つとその影響が体にでてきます。同様に霊的偏食も、長い時間が経つとその影響が私たちの霊性に現れてくるのです。ですからぜひとも毎日霊の糧を食べることができるように生活習慣を変えましょう。
 聖書を読むことが楽しく感じられること、自らの霊的な向上を見ることができるならば、読み続けることができ、結果として霊的な利益を得ます。
 はじめは、新聞、テレビの誘惑を排除して、時間を確保するということも必要でしょう。しかし、聖書を読み続けるなら、たとえば、マタイの福音書の書き出し「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」と読んだら、アブラハムの生涯、ダビデの生涯が眼前にひろがり、イエス・キリストの生涯が思い浮かぶようになります。やがて神が仰りたいことに理解が届くようになり、そのとき、聖書は限りなく楽しいものとなります。
 長くなりましたが以上は前置きで、少しだけですが、皆さんと聖書を楽しく読むことにいたしましょう。
 ちょっと日が経ちましたが、8月21日は、ルツ記1章、エレミヤ書39章、黙示録の1章が日課でした。どの章も引き込まれて時間を忘れるような書ですが、読んだのは朝の時間、仕事に行かなければならないので打ち切りにしなければなりませんでした。

 その中で、エレミヤ書39章にでてくるエベデメレクという人物に着目しましょう。ヘブル語を読めない私たちは解説してもらわなければなりませんが、イスラエル人は名前に意味があるそうです。皆さんの名前にも意味があるでしょう。私の名前は「睦雄」で、太平洋戦争の最中に生まれたので、父は平和を願って「康雄、やすお」としよう思ったが、伯父(当時の父の所属していた教会の牧師でした)が、もっと意味の強い睦雄がいいよと言ったのでそうしたそうです。みことばは「見よ。はらから相睦みて共にをるは、いかによくいかに楽しきかな。」で、平和を越えて睦まじくです。

 エベデメレクは「王のしもべ」だそうです。ルツ記の1章におなじメレクとつくエリメレクというひとが出てきますが、こちらは「神は私の王」だそうです。ですから共通の「メレク」は「王」で「エリ」は「神」、「エベデ」は「しもべ」と読み取れます。
 エベデメレクはクシュ人(今のエチオピア人)で、ユダ王国最後の王、ゼデキヤの宦官でした。彼は、エレミヤが首長たちの怒りを買って、恐らく元は井戸であったがどろだけが底にある穴に投げ込まれたとき、エレミヤを気遣って王の許可をもらい彼を救い出した人物です。(エレミヤ書38章)
エレミヤ書39章には、エルサレムの陥落、ゼデキヤ王に対するバビロンの王ネブカデネザルの判決、それはゼデキヤの目の前でゼデキヤの子どもたちと重臣たちを虐殺し、その目をえぐりだし、青銅の足枷をつけてバビロンに連行した・・ことがかかれていて、その後に、少し前のエレミヤが監視の庭に閉じ込められていたときにあった神のことばが付け加えられています。
「エレミヤが監視の庭に閉じ込められているとき、エレミヤに次のような主のことばがあった。「行って、クシュ人エベデ・メレクに話して言え。『イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの町にわたしのことばを実現する。幸いのためではなく、わざわいのためだ。それらは、その日、あなたの前で起こる。しかしその日、わたしはあなたを救い出す。──主の御告げ──あなたはあなたが恐れている者たちの手に渡されることはない。わたしは必ずあなたを助け出す。あなたは剣に倒れず、あなたのいのちはあなたの分捕り物としてあなたのものになる。それは、あなたがわたしに信頼したからだ。──主の御告げ──』」(エレミヤ書 39:15-18)
 エベデメレクはユダの首長たちの怒りを買ったのでした。王の宦官でしたから、王がいなくなると、彼を守る人物はいません。ですから、「あなたが恐れている者たち」・・ユダの首長たち・・から神が守ると約束されています。
その理由は「あなたがわたしに信頼したから」と神が言われました。ユダヤ人がみな神に背いているとき、このクシュ人で宦官にされた人物が「神に信頼していた」のでした。 多くのいのちが失われたときでしたから、いのちが最大の「ぶんどりもの」でした。 
エレミヤの書記をつとめたバルクという人物にも神はおなじように言われました。「イスラエルの神、主は、・・あなたは言った。『ああ、哀れなこの私。主は私の痛みに悲しみを加えられた。私は嘆きで疲れ果て、いこいもない。』あなたが主にこう言うので、主はこう仰せられる。・・あなたは、自分のために大きなことを求めるのか。求めるな。見よ。わたしがすべての肉なる者に、わざわいを下すからだ。──主の御告げ──しかし、わたしは、あなたの行くどんな所ででも、あなたのいのちを分捕り物としてあなたに与える。』」 (エレミヤ書 45:1-5)