同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 聖書信仰-14 —

「けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分が、どの人たちからそれを学んだかを知っており、また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」(テモテⅡ 3:14-17)

 次に、「義の訓練」について考察しましょう。 
ここに「訓練」と訳されていることばは日本語聖書ではほとんどが「訓練」となっていますが、英語訳では「トレーニング」と訳されているものと「インストラクション」と訳されているものがあります。この二つのことばはスポーツに関してなじみ深いものとなっています。どちらも指導することには変わりありませんが、トレーニングは必要とする技量や体力などが身につき向上するように反復練習をさせたりすることです。一方インストラクションは、その人のプレーを観察し、どこに問題があるか、どのように変えていくべきかなどのアドバイスをすることです。ふたつの訳があるということは、翻訳元の聖書のことばは両方にとれることばであると理解してよいでしょう。
 その対象は「義について」です。
 最初に、聖書に私たちの義の「インストラクター」になってもらわなければなりません。私たちの信仰生活のどこに問題があるでしょう。
「この方(キリスト)について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル 5:11-6:1)
このみことばが指摘していることは、「あなたがたは、まだ幼子だ」ということです。でも長く信仰生活をしているのですから、キリスト教に関する「知識」は持っています。つまり頭だけが成長し体は赤ん坊の姿を思い浮かべて見てください。
 それがヘブル人への手紙の宛先の人たちと同様に自分にもあてはまりませんか?
信仰が「知っているだけ」でほかは何もないというように。何を心がけていかなければならないのでしょうか。それも聖書に求めることになります。