同労者

キリスト教—信徒の志す—

JSF&OBの部屋

~ 植物に学ぶ ~

齊藤 恵一

「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」 (コリントⅠ 12:26-27)

先日会社の地域貢献活動で宮城県岩沼市の海岸沿いにある千年希望の丘という場所で行われる植樹祭に参加してきました。式典も兼ねているという事もあり、この活動をするに至る事情の説明があったり、会社側でもなぜその活動に参加するに至ったかの説明がなされたりしました。
 しかし今回この活動を通して感心したのは自然界のシステムについてでした。
今回用意された苗木は1000本で植樹をする前に作業手順の説明がありました。
この説明が礼拝で語られたキリストの体なる教会に通ずるものがあると感じました。

 まず苗木の根っこや土の部分に水をたっぷり吸わせます。そして泡が出なくなったら水から引き上げそれを植樹する場所まで運んで苗木を地面に穴を掘って植えていきます。
この苗木は成長すると20~30メートルくらいまで育つのですが、ここで重要になってくるポイントは3つあります。
まず一つは密集させて植える事。
二つ目は違う種類の苗木を隣り合わせに植える事。
3つ目は植える場所にごつごつした石があってもそのままで良いという事。

 一つ目の密集させて植えることの意味は木が成長して葉が生い茂ってくると光合成をしようと隣の木よりも高くなろうとするそうです。そのため自然と木の成長も早くなるとの事でした。
 私達も教会という枠組みの中で兄弟姉妹たちと近くともに信仰生活をするために相手の信仰告白を聞かせていただいたり、また諸集会に出させていただく機会が増えます。そうしたときに世の価値観にさらされている自らから信仰者としての自らに取り戻してもらうきっかけになるという事に気づかされました。

 二つ目の多品種を植えることの意味は成長に必要な栄養素が木の品種によってそれぞれ違うため十分に栄養がいきわたるようにする為との事でした。
 私達クリスチャンもクリスチャンと一括りされてあるイメージを持たれやすいですが、しかし様々な人格がその中におり、その多様性の中で生きる時に合わないからと相手を非難する気持ちを起こして排他的になるのではなく、自分とその人とは必要なものが違う為、その点で対立関係になることはないという現実的な一面にも結び付くのではないかと気づかされました。

 三つ目のあえて地面の石などを取り除かない理由としては石などがあることによって、地面に空間ができ、そこに木の根っこが張り出すことができたり、水はけがよくなったりする為という事でした。
 私にとっての石というのは何かというと自由ではないという事でした。
 仕事に行き続ける事、教会の諸集会に出続ける事、家庭に仕え子供の必要に応え続ける事。
 この事は自分にとって石でありますけれど もこれらは取り除いてはならない石であり、この石があるからこそ木が根を張るように私という者が何者であるかを成り立たせているのであることに気づかされました。また木が余分な水を排水するように余計な事柄にとらわれず淡々と今の生活をし続ける事につながっているのではないかとも思いました。

 私もキリストの体なる教会という森の一員としてなお神に養い育てられて信仰の成長を豊かに促していきたく願います。

(仙台聖泉キリスト教会 会員)