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Q&Aルーム

—  質問してみよう「聖書を学ぶ会」報告-146—

山本 咲


列王記Ⅰ 16章

 今日取り上げたところの多くは北王国イスラエルのことが書かれている。ヤロブアムとレハブアムから南北に別れ、その後、北王国イスラエルの王朝は目まぐるしく代を変えていくことになる。その中で北王国イスラエルでは偶像礼拝が行われた。また本来神の代務者であるはずの王という存在だが、彼らが自分勝手に王となり、権力によって治めていくような形が作られていった。だからこそ、武力を用いて相手を滅ぼすような形がとられ、クーデターのようなことが起これば、親族はもちろん、多くのものが根絶やしにされた。復讐を畏れたのだろう。あとを受け継ぐと思われる者たちはすべて殺されたのだ。彼らはそのようにして王権を自分のものにしていた。しかし、本来彼らは家臣として仕えるべき立場の者たちである。にもかかわらず、王に忠義を起こすのではなく、自分が王となろうとした。それは一面変革ではあるが、当然そこには多くのものの死が付きまとった。また、そのようにして手にした地位は同じように奪われる可能性のあるものであったことが示されているのである。彼らは自分自身も行うが、それは同時に誰かから自分にも降りかかる可能性があることを示しているのだ。後半からオムリという人物が挙げられている。彼は比較すると安定の期間が長かった。それは彼が前任者の犯した過ちを繰り返さないで、国を守ろうとしたからである。それでもその支配は長く続くことはなかった。
 神の予言はわかりづらいものである。どのようにしてそれが進められていくのかもわからない。だからこそ、私たちに求められているのは神のみ旨を追及し、その中で生き続けることである。神は何をのぞんでおられるのか、み旨とは何なのだろうか。それを追求し続けることが大切である。私たちはこの後に描かれることになるエフーという人物を知っている。彼がほかの王と異なっていた。それゆえに王として長く務めることとなった。ほかの王と比べ、彼が王として残っていくことができたのは、神のみ旨を追及していたからである。神とともに生きることができるなら、私たちは苦難の時代にあっても生き残ることができるのだ。それが神の定めである。神は、この世で起こるすべてのことの背後におられる方であり、預言者を通してなお私たちにどのようにして生きるべきかを語り続けてくださっているのだ。
 オムリという人物は確かに長い期間国を治めた。しかし、彼は国の支配を正しい形で行っていたのかというと、そうではなかった。確かにオムリは世的には大変優秀な人物であった。じっくり時間をかけて、国を自分の思い通りにしていったのだ。彼はサマリヤを買い、その地を整え、その地を中心として扱うようにした。そしてシドン人と盟約を結んだ。そのことを通し、ペリシテとのかかわりを経て、力を強めていったのだ。しかしその実態は婚姻による縁組であった。ここにバアル礼拝を持ち込んだイゼベルの名が挙げられているのだ。バアルは歴史的にも卑しい宗教であった。しかし、彼にとっては国を繁栄させるため、人の興味を引く必要があったのだ。しかし、実際にはこの行為こそ、真の神を怒らせるものとなったのである。彼らは転げ落ちるようにどんどんと悪しき方向へと向かっていった。
 そんな愚かしい姿を見る一方で、北王国イスラエルがすぐさま滅びることなく、ここまで続いてきたのはただただ神の憐れみが豊かであったゆえなのである。北王国イスラエルの者たちはすぐさま立ち返るということはなかった。しかし、彼らのもとにも二人の人物が神により与えられている。この後に書かれている大いなる預言者エリヤ、エリシヤがイスラエルに残されたのだ。彼らはサムエルからの預言者の流れを汲みながら、この列王記にその働きが豊かに記されているのである。私たちはその働きの中に、神の限りない愛を見、同時に人の罪深さや、変われずにどんどんと愚かしい中に自らを貶めていく人間の弱さを見るのである。これまで礼拝の中でも罪や悪の根底には人の勘違いがあるということが示されてきた。それは神の存在を知り、どのように生きればよいのかということを知りながらも実行できない、その中に生きられない、徹底して神を信じることのできない人間の実態がそこにあるのだ。私たちはやった気になっている。神を信じた気でいる。しかしその実際の行いは決して信じている者たちのとるべき姿ではないところに平気で足を踏み入れているときがあることをこの北イスラエルをはじめとする聖書の人物たちから見ることができるのである。彼らも神を信じていると本気で思っている。しかし、その実態を第三者的に見てみれば、決してそのようには見えない。しかし、信仰者であっても同じような過ちを犯す恐れがあることを私たちは注意していくべきである。
 私たちも王国ではないが、この教会の70年の歩みの中で神を信じ、信仰の継承ということを掲げてここまできた。そこに生き続けてきた私たちはどのような人生の終わりを迎えていくのだろうか。信仰に生きた人として神の御許へと葬られたと語られるものとなるか、それとも、あの人は一体どこに行ったのだろうといわれるようなものとなってしまうかがとわれている。それは今日語られた王たちがクーデターによって滅ぼされてしまうことと似ているのだ。だからこそ、私たちはなお、畏れながら信仰生活を歩ませていただきたく願う。


Q:今日語られたところでオムリがサマリヤの町を建てたと語られていました。私の認識が間違っているのかもしれないのですが、新約の時代サマリヤは外国のように扱われていたと記憶しています。ただ、このところを読むとサマリヤもイスラエルの一部であると思うのですが。

A:確かにそのとおりである。北イスラエル王国はのちにアッシリアに侵略される。アッシリアの政策というのはその場所にもともと住んでいた者たちのそばに自分たちの民族を配置することで、婚姻関係を作り、異国人を取り込んでいくというものだった。だからサマリヤ人と呼ばれる者たちは、北イスラエル王国の者たちが異国の人々と婚姻関係を結んだゆえに混血になってしまったことを表すためにユダヤ人たちが付けた名である。もちろん混血になってしまっても、ユダヤ人の宗教性が残っているところもあった。しかし、ユダヤ人は混血になってしまったということでサマリヤ人を差別していたのだ。
 オムリはサマリヤに首都としての機能を持たせた。それゆえに堅固な町であった。だからこそ、アッシリアも時間をかけて征服しなければならないほどの規模の町ができていたのだ。


Q:ジムリが納めたのは一週間しかありませんでしたが、それはなぜですか。

A:彼がクーデターでのし上がったこと、不忠である姿が示されているのだ。彼らはそのような形で神に裁かれたという結果が出たと考えるべきである。細かい説明をしているわけではなく、彼自身が実際責められるべき部分を持っていたことがこれによって表されているのである。彼が自らの力をもってクーデターを起こし、王を倒すことで自らの地位を上げることができるというのは彼にとって大きな誘惑だったのだ。彼らは、軍を率い、武装している者たちである。だからこそ、実力を持つ者たちは自らより劣る主だと思ったときに、クーデターや反逆というものを考えやすいのだ。
私には前作の大河ドラマで北条氏のことが取り上げられた際、一部しか見ていなかったが、記憶に残っている部分がある。それは彼らが意外と多くの部分で武力をふるっていたことである。何かにつけて争いがあり、気に入らないことがあるとすぐに武力で片づけてしまっていたということだ。また朝廷に仕えるいわゆる警察官のような立場の者たちに武力を持たせていたということである。またおおよそ中学生のころに習う内容だろう「墾田永年私財法」についてだ。これができたことで彼らは自分たちの土地を持ち、それぞれが武力を持った。彼らは血の気が多くやくざのようであった。何かがあるとすぐに刀を振り上げ、武力ですべてを治めていた野蛮な時代だったのだ。今年は徳川家康で自分は誰につくのか、ついてからそこで力を発揮するのか、それとも裏切るかというような内容が取り上げられている。先日もクーデターについてのことが取り上げられていた。それを起こした人物は理由を問われ、争いがいつまでも続き、戦い続けているということを理由として挙げていた。今年の作者は徳川家康で何を表そうとしているかというと、家康がいかに悩み、パニックになりながらもことを進めていたかということである。今年の大河ドラマでは二代目の武士たち(今川や武田)のすばらしさを取り上げる一方で、初代の武士たちの迷いに迷っているすがたを取り上げていた。現代的にあらわしている可能性はあるが、私は当時もそうだったのではと思うような内容だった。
 初代の者たちは命がけの戦いに出ていきながら、農耕民族からのし上がっていくことになる。命の取り合いの中その代償をはらい、彼らはその地位を形作ったことを示しているのだ。今何をつかみ取っていくのか、何を代償として払うのか、という中で彼らは本当に必要なものや大切なものを選び取る必要があったのだ。しかし、イスラエルの彼らが選んだのは偶像であり、自己を義認してくれるような存在だったのだ。だからこそ、そのための犠牲として多くのものが支払われた。特に女、子ども、庶民がその中に巻き込まれていくことになっているのだ。
 大河ドラマも同じ人物を違う方向性から語っている。私たちもいろいろな見方で聖書をとらえていくとよいと感じる。


Q:25節の後半と30節の後半を見ると、神様の中に罪や悪にも質や量の基準があるのかと感じるのですが、どのようにしてとらえるべきでしょうか。

A:実際にはシドンのバアルという異端の神信仰が国の中に入ってくるということが大きな罪であったのだ。ネバテの子ヤロブアムは偶像ではあったがまだイスラエルの神を形としてしまった金の子牛の像をダンとベテルに置くという形であったのにもかかわらず、オムリは異邦の神であるバアルを取り上げるだけでなく、同じバアル信仰を持つシドンと盟約を結び、そこから婚姻関係を通して、同じ宗教を持つことを高らかに宣言しているところがある。そしてサマリヤにはバアルのために神殿まで立てている。また、バアル信仰の申し子のような形でイゼベルが登場している。王たちの中には預言者の言葉を聞いて揺れ動く者たちも現れるが、それもことごとく嫁たちによってバアルに対する信仰へと誤った方向に軌道修正されてしまうのだ。とくにイゼベルの存在は大きかった。ナボテの畑地を得るために彼を殺してしまった罪の問題でも、アハブを誘惑したのはイゼベルだった。総称するならば、彼はいよいよ悪い王となった部分である。悪は小さくても大きくてもすべて悪だという考え方もある。もちろん、私たちは罪に対し、小さなものも神はお嫌いになることを理解し、隠さず罪の告白をもって許しを得ていかなければならない。
 またこれは子どもに対する親の務めである。子どもをきよい状況に置いておくということは重要なことである。神は守ってくださるということもあるが、何かがあったらということを考え、子どもを罪から解放し、神の許しを信じている必要があった。明日交通事故で死のうとも天国に行けるようにということに対し緊張感をもって行っていかなければならない。罪を放置してはいけないのだ。だからこそ、親は緊張感をもって生きなければならない。
 私の父は常に緊張感をもって私に対峙していた。私は高校時代集会をずる休みし、遊びに行ったことがあった。父は集会を終えて買い物に出かけたときに私の停めていた自転車を見つけた。後ほどそれを問い詰められ、私が集会を放棄し遊びに出かけたということは明るみに出たのだった。一台や二台並ぶようなところで私の自転車を見つけるならまだしも、多くの自転車が止まるところで私の自転車を父は見つけた。これは大きな緊張感を持っていたからなのだ。大学に行って完全に父の手を離れるときまで私はそのような中に置かれ続けたがこの出来事は私にとって忘れられないことであった。そして、これもまた神の愛のゆえであったと感じている。私は日曜日の礼拝に対していかに不遜な態度をとっていたのかと罪を示された。そして、悔い改め、そこから許しを得た。
 以前の同労者のQ&Aのコーナーで咲師は亡くなった光明牧師に対し「罪にどのように対面していくかということを常に意識し、畏れかしこみ歩んだ人物だ」と述べられていた。
 1個でも10個でも罪は罪である事実は確かだ。私も常に自分が犯した罪について、後からでも思い出したらまた来なさいというようにしている。それによって私たちの中に罪がないようにと示しているのである。
悔い改めについてだが、人間の悔い改めは自分で悔い改めたと信じ、それでよしとしてしまう場合があることを畏れるべきである。
私には守秘義務がある。それは罪の告白と悔い改めの言葉を聞いたものとして、その人の悔い改めとそこからの許しが与えられたことを宣言する権利を与えられているからである。なお、ひとりで納得して勝手に終わることなく、口で告白してこそ、悔い改めとして認められることを意識し、自らもまた、親ならば子どものことも、責任をもって悔い改めとともに歩んでいく必要があるのだ。


Q:先日の礼拝のメッセージで開かれたマタイ5章6節の中で「義に飢え乾く」というところから語られましたが、私たちは「飢え乾き」求め続ける姿勢が必要なのでしょうか。聖言には「満ち足りる」ということも述べられていますが、どのようにとらえるべきですか。

A:私たちは罪人であるが、神がイエス・キリストの贖いによって、その義が私たちを活かすものとなっていることを覚えていかなければならない。しかしこれは免許書のように与えられたら終わりというものでもない。信じて生き続けていかなければならないのだ。それこそが私たちにとっての霊的糧なのだ。糧は満たされるものであり、無くなれば飢え乾くものである。だからこそ表現として飢え乾くと使われているのである。私たちの信仰生活はいろいろな出来事の中でどのようにすればよいかと思い悩んでしまう時がある。しかし、そこに至ったときに、どこへともどっていくかという地点として、イエス・キリストの贖い、救いがあるのだ。それは誰かと比べるものでもなく、私たち自身が心から信じ、得られたものとして揺るぎのない一つの点なのだ。この教会をたてなおしたときに、ある家庭では夫婦で奥さんの稼いだものすべてをささげた家庭もあった。しかし、その家庭の姿を見ると、すぐさま、祝福を見出すことは難しく感じる状況がある。しかし、先日その兄弟の証の中には祝福によって満たされていることがあらわされていた。
 彼は義としていただいた祝福の中、満ち足りているのだ。だからこそ、祝されていることを大いに語っている。客観的に見て、そのように感じられるということが正しいわけではないのだ。その人が、自分自身で感じ、信じることが重要なのである。
 新しい家が与えられることも、3世代で暮らすということも、それぞれの家庭に与えられる祝福である。そのような見える形で与えられることもまた良い。ただ、すべてがそうではない。信仰者が信仰生活の中で生き続けるときに、祝福されていると感じ、証しするときにこそ、祝福が形となって表れるのである。そのことをお互いに尊敬し、認め合い、共に感謝をしていくことが大切なのだ。
 そのようにすることができないと、加速度的に悪くなっていく状況に開き直っていくことしかできないのである。「なら私は地獄でもよい!」などと言ってしまうこともある。それが老いなのだ。だからこそ、年取る中でも「私は満たされている」と心から証できるものとなりたく願う。


Q:以前のメッセージの時に「物事の解消を図ることを人は願いやすいが、信仰者は慰めが与えられ、自分の働きにもう一度立っていくことができるということが大切である」と語られ、確かにそのように感じた。私はそれを理解することができたのが、励ましとなった。日中の仕事に忙殺され、切り替えができないときもあると感じる。

A:私たちは収支を計算したくなる。そして、プラスにしたいと思う。しかし、借金をする人はプラスだと勘違いをするからこそ、マイナスを生み出すのだ。最終的には近くにいる人間に捨てられることにつながってしまう。そのような日々において、イエス・キリストの贖いは罪をぬぐいされない私たちが一方的な憐れみによって救われたということなのだ。一日仕事をしてきたから家庭では何もしないというのは自分勝手な、傲慢さの表れである。それは勘違いであり、本当に必要なことを行い、物事を行っていかなければならないのである。愛の話をしようとしたときに、その人物が愛を実行しているのか、それとも勘違いなのかがわかる。私はあなたとの話の中でもそのようなことをしている。それを繰り返す中で是正され、仕事などもできるようになるのだ。会社で仕事を守ることよりも、家庭で仕事を守ることの方が大切である。仕事はどこかで変わることや、終わりを迎えるが、家庭での生活は生涯続く、だからこそ、家庭を大切にするべきなのである。


Q:私の思いの中で続けることの大切さを感じています。始めることは簡単ですが、続けることには大いにエネルギーを使います。これからも日々続けていくことが大切だとは思いますが、体調などの上がり下がりもあり、なかなか難しく思っています。

A:続けるということは自分を知ることにもつながる。愛を知るバロメーターでもある。祈ってごらんと言ってそれがどれだけ続くか、常にその人のことを考えられるか、それとも疲れてやめてしまうか。その長さが重要なのである。体調やバイオリズムはある。しかし、それはいいわけである。それよりも対策をうっていく必要がある。何かができないなら誰かにゆだねることも考えていけばよい。または正直に謝って手を付けないということにするしかない。言い訳をするぐらいならあきらめるほうがいい。そうすれば、それでとん挫する出来事を誰かが埋めてくれるからである。だからこそ、若いうちは周りを愛し、担える部分を自分で行っていくのが良い。それによって老いたときに周囲の人々がとん挫しそうなことを助けてくれるようになるのである。
また霊性を保っていくためには、同じ土俵にいるものと話をしていく必要がある。10分や20分ではなく、もっと長い時間をとって語り合う必要がある。それによって互いに同じところを歩むものとの語り合いの中で祝福を受け、力を受け、歩みだすことができるのである。


Q:日々聖言をよむことの大切さを感じています。今日の聖書日課の中で申命記4章5節を読んだときに励まされたと感じました。また世の中にあっても、認めてもらえるようなものとなりたいと感じるのですが、どのようにすべきでしょうか。私も大河ドラマを見ていて、いのちのやり取りや、戦いというものを感じ、聖書の中の戦いやいのちのやり取りを深く感じられました。

A:老いることが背景にある。公表する必要はないし、抗う必要もない。しかし、無知であったり、考えないということもよくない。  イスラエルに神が与えられたのは決まり事である。新約の時代を生きる私たちは決まりごとというよりも、道徳性のようなものが大切だと感じやすい。しかし、実際はその二つが必要なのだ。決まりごとは出し入れするものではなく、身に着けて守るものである。それを保っていれば、老いても守られる。神がなぜ、おきてというものを大切にしているのかというと、人の考え方も、生き方も様々であるゆえに何の束縛もなく整えていくことが難しいからだ。だからこそ、おきてというものの中で是正され守られる必要があったのだ。  彼らは奴隷時代を生きた。奴隷とは考えることや、生きる意味を働きに関してのみ与えられた者たちである。だからこそ、何もなければ、彼らは奴隷精神に飲み込まれていた。もちろん彼らも一部は奴隷へと陥っていただろう。しかし、彼らの中には神の存在があり、そのおきてが残されていたのだ。
 私たちは信仰者であることに自信を持っている必要がある。時々クリスチャンで信仰の話をしているとおちゃらけてしまう人たちがいる。それは、信仰が確かでないためだ。その部分に自信がないからこそ、おちゃらける人や、強がる人、力を顕示していく人たちがいる。しかし本来はそのような必要はない。茶化してしまうのではなく、確かな信仰を真実に証しするべきなのだ。


Q:コリント人への手紙第一6章1節「神の恵みを無駄に受ける」とはどのようなことでしょうか。

A:無駄に受けるということは、もともと私たちが与えられているものがあり、一般的に見えるご利益である。人間が一番しやすいことは与えられたものを自分のものとしてしまうことである。本来は「これは神から与えられたものである」と証しする必要がある。また、それを感謝する必要がある。あまり難しく考える必要はない。しかし、逆に恵みを受けたとすれば、誰かに与えなければならない、ささげなければならないと考えるゆえにそのように証しすることをやめてしまう人もいる。それこそが恵みを無駄にしているということである。神の恵みを無駄にするならば、持つべきものですら取り上げられてしまうようになる。
また信仰者として証しをしていても、自分の利益を得るために語っているようではいけない。その証は本来必要な場で一つ一つ活かされていくべきである。そのようにして神から受けた恵みを家庭に導き、教会に導き、他者に導くのである。パウロはコリントの教会にそれぞれ受けた恵みを受けただけで終わらず、その中から必要なものとして扱うべきものを扱った。同じように私たちもそのように行っていくべきだ。それによって小さな子どもたちをはじめ、多くの信仰者が生き生きと歩むことができるのだ。これこそ愛、恵み、祝福の運用である。なお、今月もまた、証しをもって喜びとともに歩ませていただきたく願う。

(仙台聖泉キリスト教会 牧師)