同労者

キリスト教—信徒の志す—

論説

— 世に関する神のご計画について (9) —
 聖潔に関して(2)

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ 6:6-8

<聖化、聖潔の本質>

 先に神が人間を造られたのは、人間と交わりをしたいからと述べましたが、神が人間と交わるためには、神が聖であるのと同様に人間も聖でなければなりません。
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」(ペテロⅠ 1:16)
ご自身が聖であるから、人間も聖でないとその交わりが損なわれるからです。
 全的堕落の項で述べてきたように、人間はエデンの園にいたとき堕落し、「聖」である性質を失なって「汚れ」である「原罪」すなわち「罪の性質」を持つものとなりました。以来アダムの子孫はすべて「原罪」を持って生まれてきます。
「原罪」は「罪の性質」、「アダムのかたち」・・「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」(創世記5:3)と書かれているように、アダム以来受け継いできた罪の性質なので「原」罪です。
聖書は「彼(アダム)のかたち」と表現していますが、それは「サタンのかたち」です。
その「罪の性質」に対する救いが「聖潔、(きよめ、聖化)」で、それこそが神との交わりを回復させるものです。
「罪の性質」を持っている人は「汚れた」人です。 罪の性質の救いを受けたひとは「心の清い」人です。心の清い人に聖霊が宿られてその人と聖霊は一体となります。その時聖霊の聖がその人のものとなりそのひとは「聖い」ひとになります。
 言い換えると、人間は全的に堕落をしたものであるから「聖潔、(きよめ、聖化)」を必要とするものになったのです。
 イエス・キリストの贖いは、人間の「犯した罪」のみでなく、「罪の性質」にもおよび、その必要に応えています。

 罪性(古い人、古い自我)を持ったまま聖であり、神と豊かな交わりをもつことはあり得ないことは、罪性がどういものか理解すると分かります。
 堕落した人間は「原罪」を持つ者となったわけですが、その本質は「古い自我」にあります。それで古い自我について考察してみましょう。なぜ「古い」と付け加えるのかと言いますと、「自我」は「キリストと共に死ぬ」と表現しますが、潔められても無くなるのではなく、「新しい自我」となって生きるからです。

  古い人(古い自我)は
 1) 自分を神とする(エゼキエル書 28:2)
 2) 偶像を礼拝する(ガラテヤ 5:20 、エペソ 5:5)
 3) 神に従わない(エペソ 5:6)
 4) 神に敵対する(ヤコブ 4:4)
 5) 神を信じない(ヨハネⅠ 5:10 )
 6) 神を愛さない(ヨハネⅠ 2:15、 コリントⅠ 16:22)
 7) 神のことばを愛さない(ヨハネ 14:24)
 8) 神の子たち、教会を愛さない (ヨハネⅠ 310)
 9) 世を愛する(ヤコブ 4:4、ヨハネⅠ 2:15)
10) 快楽を愛する(テモエⅡ 3:4)
11) 罪を犯す、悪をなす(ヨハネⅢ 1:11)

 このようなものをこころの内に持ちながらどうして聖であり、神と豊かな交わりをすることができ得るでしょうか。
「自分を神とする」ことに「サタンを神の位置に置く」ことが隠されています。それはサタンへの服従です。

 パウロはローマ人への手紙6章に「聖潔」について書きました。
最初に出てくるのは、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」ことです。それが罪性(古い人、古い自我)の死です。これを抜きに聖潔(きよめ、聖化)はあり得ないのです。その後に「聖霊に満たされて、キリストと共に生きること」が続きます。

<聖別>

「あなたがたが自分の身を聖別するなら、あなたがたは聖なる者となる。わたしがあなたがたの神、主であるからだ。・・わたしはあなたがたを聖なる者とする主である。」(レビ記 20:7,9)
 聖別とは神の所有となることで、人間の側で自分が神の所有となることを受け入れることと神がそれを受け入れて受け取って、ご自分の所有としてくださることです。
そのとき聖霊がこころに満ちてくださる、聖霊の満たしが伴います。聖別が聖霊のみたしの条件です。
 古い自我は自分を自分の所有であるとして固執し、神の所有となることを受け入れません。そこに信仰の戦いがあります。自分を神の所有とすることは神に降伏することを意味します。そのため、自分を明け渡すという表現もされます。
 その「神に対する降伏」が、「献身」です。ですからくり返しになりますが、献身したひとを神が受け取って聖別してくださること、それが聖霊の満たしをうけ、潔められる入口です。献身を受けいれ、聖別して下さったとき神は「古い自我の死」を実現して下さいます。人間は自分で死ぬことはできません。ただ聖霊がそれをなして下さるのです。
 この献身は本人の意志に基づきます。神は人間の自由を侵害されません。献身を決意できるのは新生したひとです。ですから聖潔は必ず救いの恵みに与ったあとに与えられます。実際の献身は、「きよめの証」をされる兄姉の証言から、その人が固執していたごく小さなことを放棄して神にお従いしたことを、神が「献身」として受け入れてくださることが分かります。